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理念

捨てよう方法論

学問的手法とは別に、とりあえずの結果を得るための方法論にあふれている私達の社会。学問的成果の蓄積は、掴みたい事を、その地点の成果から知をスタート出来る、以前と比べてのアドバンテージとなるものですが、結果を得るための方法論は、時と共に使えないものとなる事が多いようです。 (身近な例として、節税、入試、就職、仕事スキルノウハウ本、ノウハウ評論等)それは普遍性の有無なのでしょう。普遍性をあまり、或いは全く持たない方法論から社会を見れば、時が経つ程、使えなくなる人が増える社会とも言えましょう。普遍性とは、真理に使い言葉であり、自然(じねん)の摂理に近いものだと解釈しています。
社会を方法論的視点から見、古くなった自分を嘆く、恐怖を持つ人々。方法論的視点を半ば常識的なものとする社会認識を持ち、各々に職業(管理者に多いタイプ?)を持つ、或いは持っていた人々。一旦、自らこの方法論を捨てる、脇に置いてみてはどうでしょう。

普遍性

かつて、法隆寺、薬師寺の宮大工棟梁であった西岡常一さん(故人)が、その著作で語っていました。(木に学べ、法隆寺、薬師寺の美)「堂塔の木組みは寸法で組まず、木の癖で組む」「木の使い方とは、一つの山の木でもって、一つのものを作る」これは、木の生えている場所を考えて、その性質を見抜く、例えば、いつも同じ方向から風が吹く所に生えていた木は、その風に対抗するように働く力を持っている、だから右ねじれと左ねじれの木を組み合わせれば、動かない丈夫な木組みになる。南面の木と北面の木、各々も使い方がある、だから木を買うな、山を買えとなる。と言ったものです。また建立された時代の史観を他時代と比較しつつ、あぶり出す自身の思想観や職人の中で達した者が後世になって芸術家と言われると言った生業仕事観等、西岡的総体的な小宇宙のの成り立ちへと、その著作内容は拡がっていきます。

真、美、自然(じねん)の摂理

これは、方法論(寺の設計方法、構造設計等)ではなく、成果の蓄積(先人達の知見)から、更に多様な世界に踏み込んでいく思索を通じての、普遍的(法隆寺、薬師寺の宮大工の普遍性)なるものを求める書だと読めませんか?西岡さんの仕事ぶり(生業ぶり)から宮大工西岡の美があぶり出されていると感じませんか?
そして、美の物語、ストーリーを持ち、自らの理念の貴さに気付くことになりませんか?多様なモノ、コトを等価とする意識から、普遍的なものをたぐり寄せる行為が自らを真理に近付け、自然(じねん)の摂理(この場合は木組み)に収まる、その様を表していると考えられます。真(真理)からのアプローチによる美の発生メカニズムでもあります。方法論からは到達出来ない。多様なもの(私達の暮らしの総体)を等価と見、真理、摂理へと向かう中で、理念の貴さに気付く事は普遍なるものではないでしょうか。

等価

僧の修行が読経だけでなく、清掃に始まり、食事作り、薪割り、作庭、野良仕事、時に狩猟、採集ならぬ山入り(キノコ、山菜取り)食事や入浴の作法、着こなしへの気配り等、これらを等価とすることに対し、私達の多様な暮らし、仕事も、農も、釣りも、作庭も、立ち居振る舞い、ファッション、勉強、スポーツ、好きな趣味等、これらを○○だけ、○○さえしていれば、とするのではなく、全てを等価とすることから始めませんか。

既述した章でのマルクス、資本主義、人間の商品化は、是非論とは別に人の商品化=人の値段の値付け、高低価格帯化となり、低価な人=差の無い日用品的日用人=どうでもいい人、どこで作っても同じ様な品、のフェーズに社会が向かうことを示しています。これは、逆にモノ、コト、マチ、ヒトに関して、美の物語、ストーリーを持つ理念の貴さの様を、現実の社会が渇望しているとも読めます。(美の物語、ストーリーを持つ理念の具体例に関しては既述の章を参照)自分で自分の等価を拡げていくことはプライスレスです。どうでしょう?


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