小さな開発、大きな開発①
公園
今日、我々が何気に使っている言葉の中に、これまで無かった概念を言葉(思想)として新たに和訳されたものが明治期に多々あります。これらの言葉から思想を紐解く作業を、これまでの章の一部で述べてきまし
た。そこで今回は、その例の一つとして「公園」を挙げ、街づくりの思想を比較の中から紐解いてみたいと思います。
明治期初期にパブリックガーデンを和訳し「公園」と言う概念が生まれます。またロンドン、パリ、ベルリン、ウィーンを見本に明治期中頃に、文明開化の象徴として、ジョサイア・コンドル(鹿鳴館等の設計者、東京帝大工学部教授)が、発案した公園(日比谷公園)が誕生します。(コンドル案は立ち消えとなりましたが)但し、公園設計案は東京市会での可決となるまでに9案も出されたと伝えられています。否決案は築山と松、梅、桜の樹木と園亭と言った和的神社仏閣的なものであり、可決案はドイツ留学先から持ち帰った当時の代表的公園の設計図を参考としたものだとされています。(本多静六、明治神宮の造園、植栽設計者)この公園は、やがて欧米に次ぐ目標とされ、官を挙げての各県の公園推進となったと言われています。
一方、見本としたヨーロッパ諸国の公園は、産業革命以降台頭する都市のブルジョワジーや上中階層の人々が、自分達の生活流儀、趣味、娯楽を良いものとして、下層階層に押し付けようとしたもの、主張しょうとしたものであり、穏やかな自然の中で散歩等を娯楽、趣味とすれば、無教養で粗野な大衆も上品になろう、との考えが見える、と訳しているようです。(白幡洋三郎著 日本文化としての公園より抜粋)野人もびっくりです。また、初期のヨーロッパでの都市公園は、都市のブルジョワジー達がおしゃれして集まり、散歩しながら自らの社会的ヒエラルキーを互いに確認し合う場でもあったようです。ブルデューも納得です。
大きな開発
是非論ではなく、今日大規模に街づくり、都市活性化のもと再開発され、何かの象徴(かつて見た一流国幻想?)とも見え、アップグレードされるオフィス棟、ホテル棟、マンション棟、商業棟と言ったワンセット施設が自然環境に取込まれるゾーニングとなっている「物件」は、それらを利用する多くの人々を含め、まるで日本がまねた、かつてのヨーロッパの都市公園のように見えるのは、僕だけでしょうか?
また、幕末から明治にかけて欧米経験をした人々は、かの地で交流する人々と共通する知識人であったり、指導者層であったりと、彼等は民衆と言うより、支配者層、エリートに属する官の人々でした。それ故、欧日共通するメンタリティー、美意識を持つ人々が当時のヨーロッパの公園を我が国にも、となっていったのでしょう。これも是非論ではなく、再開発される「物件」から、民衆性とは違う官民の新たな支配者層、エリート層の画策に偏る匂いを覚えるのは、僕だけでしょうか?
小さな開発
公園を誰しもが入れる公的な場所とするなら、日本の公園の大衆化は既に明治期以前に起こっています。よく知られている事として江戸期元禄の頃から武家や城下の町衆が行っていた花見と飲食する場所は名所図会には必ずと言って良いくらいに桜の花見の名所として登場します。日本型公園のルーツは花見の名所だったと言えます。もっとも、定住そして稲作農耕を行ってきた常民(農民)にとっては、氏神様をヤマに帰し、サト(里)に新たな氏神様を迎えるため春山入り、春山行き、と言った春先に食物を携え近くの山に入る行事(神事)=花見が行われていました。日本のルーツ型公園、花見の場所、そこでの飲食は、神への信仰から始まる文化の形ですが、そこには日々の暮らしの営み(農)があってのものでした。
またヨーロッパを手本とした公園とは全く異なり、支配層からの啓蒙性(上から目線)を伴う作為、上中階層の自己確認装置ではなく、過去の記憶が伝承されつつ、常民の自発的な成り、営みの一部だったのです。
この公園論は、町の記憶と人々の多様な営みが作り出す自然(じねん)なコミュニティ、界隈性を持つ街と、街に行くのではなく、街に居る実感を伴うものでもなく、施設に行く、施設で買う、施設を使う、施設で働くことが誇らしくイケてる私だと錯覚させる開発側のハコの押し付け(錯覚する、しないは別です)のように見える再開発の「物件」との違いが浮き立つように見えませんか。
従前から存在するルーツ型公園、かつての見本としたヨーロッパ型公園の対比のようです。公園と言う言葉の意味を、史観的に押さえると、二つの文脈で流れる文化と思想(民衆と支配層)が、街づくりにも流れ込んでいるよう脈々と続いているように見えます。
小さな開発、大きな開発と言った街づくりの思想として・・・。
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