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作庭の話2

農園                                農と食の営みによる庭づくり(○○農園と呼んでますが)を始めて30年以上が経ちました。
アジアモンスーンの風土に適するような植生であり且つ、食べられる実が結実する常緑、落葉果樹(檸檬、金環、葡萄、ブルーベリー、梅、白イチジク、ジューンベリー、ブラックベリー等)や夏の湿気が旺盛な植物の繁茂をもたらす下草対策としてハーブ類(フェンネル、アーティチョーク、ミント、ローズマリー、アップルミント、チョコレートミント、タイム、ラムズイヤー、セージ類等)
夏の日光と冬の霜を除ける、或いは、冬から春の朝日を浴び、夏から秋口の遮光を作る且つ、葉もニュアンスを持ち花の咲く高中樹木(ミモザ、アカシア、赤目カシ、オリーブ、月桂樹等)とその幹の下回りに早春から盛夏までに束で咲く茶花(水仙、スノードロップ、各色のクリスマスローズ、春蘭、各スミレ、ヘビイチゴ、ギボウシ、瑠璃ヤナギ等)、          主にこれらで農園の植生は構成され、(近年は、サボテンやバナナも登場します)食べるだけではなく、作為的ではなく、手を余り掛けることの無いよう、多様な自然の様となるよう、野に生きる状態を想像しながら、地場種となるよう願い、植えています。

営み                                風土に合うと思っても、夏を越せなかったり、各植物固有の弱点(ゴマダラカミキリの幼虫やヤトウ虫の好む芽や幹、名の分からぬ蛾の幼虫が葉の付け根から茎に入り枯らしてしまう葡萄や檸檬、薔薇等)があったり、果実に強いツル性(ヘクソカズラ)の植物に覆われ枯れるものがあったり、冬の剪定が悪く結実よりも葉の成長が勝るものがあったりと、因果関係の発見と試行が、今日の農園の形を作りました。
農園からは、年々繰り返し行われる生の営みが、私の暮らしに神性なものを感じさせ、安定感もたらします。
春先は特に、一番早く咲く花(水仙、スノードロップ、クリスマスローズ)には、精霊が見えるようです。
初夏、結実が同時期となるブルーベリーや葡萄、檸檬に群がる全身花粉で黄色のクマ蜂(黒色)と同色(黄色)の花が山のように咲くミモザの大木を見ると、クマ蜂がミモザに宿る精霊のように見えてきます。
盛夏から晩夏、3m程になった白イチジクやブラックベリー、ジューンベリー(大きくなり過ぎ収穫しづらいのですが)からは、一度、虫が幹に入り枯れかけた状態から復活した様に、自然の持つかけがえの無さを感じます。(だから枝を余り切りたくないのです。)
秋口、夏の立ち枯れた枝のみにとまる秋アカネ(とんぼ)の行動に、生命の循環を感じ取ります。
農園からは、植物達と自分が同じ目線で共に立っているような、フラットな関係の世界観を感じます。
中には、100年を超える木もあります。この木を見てると(古木に霊性、神性を感じる人も多いと思いますが)先人先祖達も同じような思いを持って見ていたのだろうと考えてしまうから不思議なものです。
一昨年、古木が切られました。倒木が危険と言う理由からです。分からない訳では無いのですが、それを植えた気持ちや意味、時間を考えると、切ることへの否定感が起こり、とても不安と悲しみを覚えました。
ケガされた木=ケガされた自分=ケガされた先祖の関係です。

野人                                農園は、一つの自然世界であり、その中の一つとして自分が在り、同様に 植物、虫達も在る、共に感じ合うと言った感覚を覚えます。       自然(しぜん)は自然(じねん)、自ら(おのずから)然り(しかり)の 世界観です。鑑賞の庭(蓬莱、枯山水)と実践、体験の庭(農園)の違いでしょうか。
農園での営みは、山人的祈りに近い感覚なのです。(「祈り」参照)
農園やそこでの営みがリア充のメタファー、記号になったり、作庭を絡めて芸術論的に語る素材になったりする事に違和感を覚えます。
ここでの農園と営みは、体験に基づく、野人(のびと)の思考への追体験 ではと思えませんか。

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