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第0話

2001年4月。

新入社員の僕は、東京配属が決まり、吉祥寺にある会社の寮に入ることになった。

着いてみると、そこは本当に昔ながらの寮で、トイレ・風呂は共同。
部屋は個室だがとても狭く、壁はくすんでいて、床よりも一段高くなったスペースに布団を敷いて寝るのが独房のようだと思った。
ただでさえ不安な新入社員が、その部屋に入り、とてもどんよりとした気持ちになったことを覚えている。

独房のような部屋

1階に食堂と風呂、管理人さんの部屋があり、2階と3階が寮生の部屋。
玄関の鍵がいい加減だったので、ときどき食堂にメシ泥棒が入ったりもした。
ちなみに管理人のおじさんは元ボクサーで、そのメシ泥棒を追いかけて自分で捕まえたそうだ。

独房のような部屋に加え、もうひとつ困惑したのが食事だ。
朝飯、夕飯どちらも元ボクサーが作ってくれるのだが、それがまさに男の料理。
バランスがめちゃくちゃだった。

ある晩は、ハンバーグと鯖の塩焼きが同時に出たかと思えば、
翌日の晩は目玉焼きと納豆だけの朝食みたいな夕食だったりする。

ハンバーグと鯖塩焼き。どっちかでいい。


それと油の会社のせいか揚げ物の頻度がとにかく高かった。

揚げ物の連続

あと、なぜかピーマンの肉詰めがよく出た。
ふつうはまあ3か月に1度食べるかどうかのピーマンの肉詰めが、
ここでは週に1回は出た。
元ボクサーの名誉のために付け加えると、味はなかなかうまかった。
イベントのときに出る煮込みなんかは絶品だ。
ただ、バランスだけがデタラメだった。
 
寮の前には社宅もあったので、既婚の社員もこの食堂に来てよく飲んだ。
飲むときは元ボクサーも一緒だ(ふだんは優しい)。
新入社員としては先輩ばかりであまり参加したくなかったが、
出たら出たで楽しかったし先輩たちに覚えてもらえたのは良かったと思う。

そういえば、ホッピーを初めて飲んだのもそのときだ。
はじめはビールの薄いやつみたいで微妙だなと思ったが、
次第にその薄さが癖になりはまっていった。
20年経った今でもホッピーはよく飲む。
 
2年目になり僕は寮長になった。
2年目、3年目くらいの寮生がやることになっていて、
一緒に入った同期にじゃんけんで負けたせいで僕が寮長になった。
といっても仕事は、寮の敷地で行う春の花見と夏のビアガーデンを企画し、
ポスターを作って社内に貼って告知することくらい。

書いていて思い出したが、あのときに作った花見のポスターがなかなか好評で、
今から思うと当時からそういうことが好きだったのかもしれない。
それでも、そっち方面に本格的に興味を持ち、宣伝会議のコピーライター養成講座に通うのはそれから何年もあとになってからなのだが。

古きよき花見

このように、寮では困惑することも多かったが場所は良かった。
なにしろ、住みたい街ランキングでいつも上位の吉祥寺だ。

寮は吉祥寺駅を出て、井の頭公園を抜けた先にある。
だから、会社の行き帰りには必ず公園の中を通った。
残業して帰ってくると花見客で賑わっていてうらやましかったし、
休日はボートに乗るカップルたちを横目に独房のような部屋に帰った。

そういえば僕が入る前にいた先輩は、井の頭公園の池に住む鴨を、
餌を撒きながら寮まで連れてきたらしい。
 
僕は僕で、酔っ払っては吉祥寺のあちこちで寝た。
駅のベンチ、いせやの前の道、井の頭公園。
当時、会社が築地にあったから、銀座あたりで飲んでは電車で帰り、
吉祥寺まで来ると寮に着く前に寝た。

青春だった。
ハモニカ横丁にある小ざさという店の羊羹を買うために
早朝の3時から同期と並んだこともあったし、
恋も失恋もした。
 
結局、寮が老朽化で取り壊される2006年10月までここに住んだ。

いつも非常階段から出入りしていた。

そして僕は寮を出て別の町に住むことになり、別の町で寝ることになった。
 

前置きが長くなったが、あれから20年が経ち、いま宣伝会議の
「アートとコピー」という講座にコピーライターとして通っている。

毎回課題が出るのだが、今回の課題は、コピーライターとデザイナーが
コンビを組んで「やってみた大賞」に応募するというものだ。
なにかをやってみてnoteに書くことが応募の条件。

今回、コンビを組んだのはアートディレクターの野田さん。

さて、ふたりでなにをやろうか?
野田さんとやってみたいことリストを作ってみる。

一緒に広告をつくるとか、僕がアートで野田さんがコピーをやってみるとか、
ほかにもいくつか書いた。

やってみたいことメモ


その中に、なんとなく「井の頭公園でボートに乗る」と書いたのは、
やはり寮に住んでいるころから憧れがあったのかもしれない。
当時、毎日目にはしていたが、乗ったことはなかったし、
特に乗りたいとも思わなかった。
でも、書いているということは、本当は乗りたかったのかもしれない。

オンラインでの打ち合わせでリストを見せると、
野田さんも「井の頭公園のボートおもしろいかも」と言ってくれた。

同じ講座に通っているとはいえ、僕と野田さんは話したこともなく、
教室でもお互いの顔もほとんど見たことがなかった。
そんなほぼ初対面の男女が、カップルたちに混ざってあの井の頭公園の
スワンボートに乗る。
デートでもなく、特にこれといった感情もないふたりなど、
あの池には他にいないはずだ。
どうなるか興味があったし、僕と野田さんがスワンボートに乗っている絵が
まず面白いと思った。
そしてなにより、青春の吉祥寺でやり残したことをできる。
そう、僕はやり残していたのだ。

まさかこのタイミングで、それも初対面の人と乗ることになるとは思わなかった。


さて。やるとなったら、なるべく初対面の状態で乗りたい。
だから、そこから当日まで、ふたりで打ち合わせをすることをやめた。
 ちなみに井の頭公園のボートにカップルで乗ると別れるという都市伝説があるが、
この課題をやり切るまでは野田さんにコンビ別れしないでほしいと思った。
 
そして、当日。

6月なのに気温35度の猛暑。
久しぶりの吉祥寺はやはり懐かしい。

少し早く着いてしまったから街をブラブラする。
あのころとはだいぶ変わったな。
サイゼリヤできたのか。
 
待ち合わせ時間の14時。

ん?
野田さん来ないな・・・

 LINEが来た。少し遅れるみたいだ。
なんだろう、緊張してきた。

初対面の人とボートに乗るといっても、これは企画だ。
本当のデートほど緊張することはないと思ったが、
こうやって待っているとやはり緊張してくる。

無駄にウロウロしてしまう・・・

野田さんの顔わかるかな?
メガネだったよな?
 
ウロウロウロウロ・・、

キョロキョロキョロ、、

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