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映画『ダンケルク』

画像引用:映画.com『ダンケルク フォトギャラリー』より

ノーランには珍しく時間軸の往来が少ない映画である。

「私はどんな風に生きてもこんな風に振る舞い、決断しただろう」と深く確信する際に人間はもっともノーブル(noble)になることができる。
僕はノーランがあれほど時間の不可逆性の揚棄にこだわるのは、その確信を描きたかったからだと思う。
僕の想像に過ぎないのだけど。

『ダンケルク』では戦争という極限状態でも(というか、だからこそ)尊く振る舞える人間とそうでない人間を描いた。
当時、実際に英雄的行動に出た人たちが何人もいたのだろうと思う。
遊覧船でダンケルクに向かう父親ドーソンは「私たちが始めた戦争で息子たちを死なせてしまった(だから助けにいかなかなければ)」と言う。
ドーソン以外のキャラクターにも見られるこの有責感が「私がここですべきことを果たせば助かる命がある」と考え、英雄的行動に駆り立てるはずみとなっている。

この映画には沈みそうになるシーンが三つある。
戦艦が魚雷に爆撃される場面、商船での乗り合わせ、被弾するパイロットのコリンズ。
視認した敵を追跡するか迷うファリアも燃料切れで飛行を続けられるかを恐れ、空から落ちそうになる点は同じである。
沈むこと(死)と直面する際、その人間の真価がわかる。
あるものは自分が助かるために他人の命を投げ出し、あるものは自分の行動に何万もの命が左右されているからと危険を犯して敵を追う。

ピーターはジョージの死を知り、周りの兵士にもそれぞれそんな死を見てきたと思ったのだろう。
人間は簡単に壊れることを知ってしまった。
だから友人を死なせた男に「大丈夫だ」と善意の嘘をつく。
nobleとはそういうことなんだと思う。

ラストシーンは新聞を読み上げる主人公と途中で一緒になった高地連隊の兵士の会話で終わる。
主人公の目には信じられない人間の姿が写っている。
昨日まで他人が死んでも「自分であるよりはいい」と答えた人間が、今日では「生きていれば十分」と恵んでもらったビールや食べ物にはしゃいでいるのだから。
きっと高地連隊の彼らは戦争が終わった後に語るだろう。
どれだけ戦場が醜い場所で、そこから自分たちが生きて帰れたのはどれほど幸運だったのかを。
そしてその中で生き残るためには残酷にならざるを得なかったとし、商船でギブソン(偽)に出て行かせようとした自分たちを合理化する。
主人公と高地連隊の兵士を隔てるものは何だろう。
商船の争いでギブソンを「フランスのカエル野郎」呼ばわりした際に主人公は咄嗟に止める。
誰かが出なければ全員が死んでしまう。
だったら必要な犠牲だろうとの声に主人公は返す。

「フェアじゃない。犠牲は仕方ない。でもこれは間違っている。」
戦争のような世界が歪である場合でも倫理を失わない人間。
撤退戦の殿をすすんで務めようとする人間。
法律やルールそのものが機能しない状態を戦争と呼ぶのなら、そんな世界でも倫理を失わないのはフェアネスを忘れない人間だけである。

僕にはノーランがそう言っているように感じた映画だった。

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