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大友克洋『MEMORIES』

画像引用:画像引用:STUDIO4℃より

大友克洋原作のアニメ映画『MEMORIES』を観る。
3つの短編から成る映画である。
さすが大友克洋、この人のストーリーテリングは恐ろしく開放的であり、いささか突飛な言い方をすると、どこの星から電波を拾っているのだろうと思う。

これらの短編は想定される年代も世界像もバラバラなのであるがテーマは同じである。人間の邪悪さについての物語なのだ。
1本目の『MEMORIES』に関しては、SOSを発信したオペラ歌手の幽霊(あるいは残存思念、機械人形)の存在自体が邪悪さの根元になっている。
オペラ歌手であった女はSOSを発信し、救難信号を得て助けにきたものを引きずりこ込む。
彼女の邪悪さは底なし沼みたいな方法と宇宙船の墓場の規模から伺える。
『羊たちの沈黙』のレクター、『ハリーポッター』シリーズのボルデモートとか、『羊をめぐる冒険』における羊のようなPure Evilっているよねってお話。
人で、生物学的に雌だとそういう邪悪さだよね。

2本目の『最臭兵器』において邪悪さは兵器となってしまう主人公(?)のその愚鈍さによって描かれる。
この短編全体を通して、彼は高い知性を持つはずの研究者であるのに、一度も「自分がこの状況の原因ではないのか」という疑問を己に投げかけない。
原因は彼だけではない。
例えば、所長室は誰でもパスできてしまうこと。
この研究所の管理の緩さ。
無責任な「所長の持ってる薬を貰えばいい」との発言。
事故現場に残っている唯一の生存者をスルーしてしまう局長のミス。
そしてお約束のエンディング。
見れば見るほど「まあ大惨事になるのは当たり前だわな」的な気分に満たされていく。

3本目は戦争の終わらない『大砲の街』。
人間の邪悪さが最も端的に表れる戦争についての話。
しかし、邪悪さは戦争そのものではなく、戦争以外に関することが一切排除されているという逆転した形で画面に表れている。
ストーリーというストーリーはなく、戦争状態における街の日常を淡々と活写することで観ているものに不気味さを煽っていく。
この日常描写における表現技術の高さによって、街に住む人間の挙動の無意味性を強調されている。
僕は最後の最後まで戦争以外のことを映像から見出そうと必死だった。

おそらくあの息子は明日も「朝ごはんの後」に起床し、代わりに授業を真面目に受け、砲撃手の肖像に敬礼するサイクルを続けるだろう。
父はあの列車に乗り、同じようなミスをして怒鳴られるだろうし、母は砲弾を作り、工場長の噂話をする。
だが、真面目にルールに則って生きるほど戦争という火に油を加えることになる。
母が「手をあげようとしない隣のおばさん」に手を上げさせる行為は戦争反対の芽を潰すものである。
この隣のおばさんは外で配られる労働者保護のビラを手にしているのは印象的だ。
息子の真面目な勉強は砲撃の精度はあげるが敵(そもそも存在しない可能性すらある)についての情報を全く与えてくれない。
対称的に他の子どもたちは授業中に寝ることによって勝率を有意に下げるだろう(勝ち負けにせよ終戦に近づく)。
自分の首を自分で絞める人間。
この邪悪さこそが戦争なのである。
戦争は戦争それ自体が自己目的化する。
『大砲の街』は大友克洋版『1984年』なのであった。

大友克洋はこの映画で人間に備わる3つの邪悪を描いた。
彼が人間の邪悪さについて描くのは、それが人間の善性について描くことにより有益であると直観したからだと僕は考える。

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