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映画『アナコンダ2』

画像引用:『アナコンダ2|ソニーピクチャーズ公式』より

『アナコンダ2』からの教訓を3つ。
①人生にショートカットはあるけれど、その道にはアナコンダみたいな獰猛で餓えた獣のような存在が跋扈しているよ。
②だから遠回りでも安全第一。
③頼りになるのは「俺の責任だ」と言い切れる人と生き残りたい意志をはっきり打ち出す人。

僕はこういう人類普遍の叡智には敬意をもって接することにしている。

渡る世間に鬼はないなんて言うけれど、それは欲を出さなければというお話。
これがハリウッド映画で製作費2.5千万ドルに対し興行収入も7千万ドルというのだから、アメリカ人も競争原理だけじゃないんだなと当時見た人は思ったのだろう。
しかし、その後は競争原理の権化みたいなトランプという排他的な人物を大統領に戴くまでにアメリカ市民の成熟度も劣化したのだから世の中わからないものである。
もしかするとアメリカのみなさんはこういうメッセージを含んだ映画を作れるという事実から推して、自国の浄化システムは健全に機能していると考えたのかもしれない。


ストーリーは至って簡単。
未開のジャングルに不死の夢を叶えてくれそうな蘭がありそうだから行ってみたら、トラブル続きだし、人喰いアナコンダすら登場。

死人が出る中で欲を出した男は億万長者になるためにはなんでもする(自分が不死になったらお金なんて要らなくなるように思えるんだけど)。
この男は同僚を毒蜘蛛に噛ませ、みんなで作ったイカダを隙をついて独り占めし、最後には不死の蘭を脅して取らせようとする最低の人なのである。
欲を出しすぎて最後はしっかりアナコンダの胃袋(あるのか?)に収まる。
この悪役のリスクとデインジャーを取り違えている感じがなかなかたまらない。

国際関係論では「危険」を「リスク」と「デインジャー」に使い分ける。
リスクというのは「マネージ」したり、「コントロール」したり、「ヘッジ」したりできる危険のことである。デインジャーというのは、そういう手立てがまったく効かない種類の危険のことである。
サッカーの試合で、残り時間5分で1点のビハインドというのはリスクである。サッカースタジアムにゴジラが来襲してきて、人々を踏みつぶし始めるというのはデインジャーである。
デインジャーとはまさかそんなことが起こるとは誰も予測しなかったために、そのためのマニュアルもガイドラインもない事態のことである。
引用:内田樹の研究室『デインジャーとリスク(しつこい)』より


多分、彼はアメリカでは優秀なビジネスマンだったろうと思う。
競争は得意なんだけれど、それは原理上ルールがあってのことなのだ(「競争」って端的に言えば順位付けのことであり、誰が一位なのかという判定が機能する状態である)。
だから「競争」には向くけれどルールが機能しなくなった場合における「生存」には役に立たない。
アナコンダは「デインジャー」である。
彼は死んでしまう。
アナコンダを「リスク」と取り違えたために。
ゲームと生存を取り違えたために。

でも、こういう「可もなく不可もなく」なシンプルな悪役っていつ頃から消えたんだろう?
僕は好きなんだけどな。
最近は理屈をこね回して「まあアイツにも一理あるわな」的ポジションを狙いすぎて失敗する悪役が多い気がする(『ジェミニマン』の父親役は意味不明だった)。
カリスマ悪役ハンニバルなんかもピュアな邪悪さを持つキャラクターだし(意外とレクター博士は断定が多く、理屈をこねくり回したりしていないのだ)。

そういえば人間の脳には蛇とか蜂とかを一瞬で識別する機能があるとどこかで読んだのだけれど(たしか扁桃体が云々)、蛇をみた時のあの「体中が逃げたくてたまらない」という感覚までには至っていないのが残念。まあ2005年のCG技術なのでね。
それでもクロコダイルや沼、ヒルのおかげでジャングルのジメジメと鬱蒼した感じがよく伝わってくるのでよし。
2021年ですが普通に見れました。
多分、小学生くらいの子供だったら(グロテスクなので内容として見せるのは別にして)、映像としてはのめり込んで見せることができるんじゃないかな。
あまり技術的なことを言っても面白くないのでここでやめとく。

どうでもいいけど、主人公(?)の女の人がジェイク・ギレンホールに似てる気がするのは僕だけだろうか。

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