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語り

【自助グループ・語り】

 「語りが上手い」なんて言われることがある。それは私にとって、「よく生きてきましたね」みたいな定型句よりずっと嬉しい。けど、「月美さんは喋りが立つから」「人前で話すのがお上手ですから」なんて煽られると、ちょっと腹が立つこともある。我ながら、自分の器の狭さに引く。私のキャパはおちょこの裏だ。

 それでもやっぱり褒められるのは嬉しい。私にはAPDという聴覚情報処理障害もあるし更に言語障害もあるので、実は日常会話が苦手だ。今でもST(言語聴覚士)のリハビリテーションを受けており、編集さんには「私、わかったフリしますから! 後で何度も同じこと聞き直すかもしれませんがよろしくお願いします!」と、米倉涼子は絶対言わない情けない宣言を堂々としてから打ち合わせをさせてもらっている。小六から必須だった耳栓は現在ノイズキャンセラーイヤホンに変わり、技術の進歩にマジで感謝だ。
 そうやって何とか人前で話しているので、イベントに登壇し流暢に喋る私の手元には合いの手の箇所までメモった台本が置かれていたりして、だから本当はあんまり上手くないのだと思う。

 私は本物の語りの名手に何人も会ってきた。自助グループの仲間達である。自助グループとは主に依存症の当事者だけで集まり、「言いっぱなし聞きっぱなし」をルールにそれぞれが語る会だ。仲間の話を聞くこと、自分に正直に話すことが回復に効果があるとされており、長い歴史を持つ。AAと呼ばれるアルコール依存症者の会を筆頭に、NA(薬物依存症者の会)やKA(クレプトマニアの会)など、多種多様な会があり最近では依存症に限らず広まっている。でも私が通い始めた20年前はそんなに種類も開催場所もなく、私はメンバーに許可を得て、下戸なのにAAに通っていた。
 前述した通り、AAは男性社会だ。成り立ちはもちろん、開催時間も仕事終わりの平日夕方であったり、子どもを持つ主婦なんかは物理的に出席することが出来ない。つい最近まで女性の依存症者なんていないことにされていた。夫に隠れてキッチンで酒を煽る地方の主婦が、オンラインで自助グループに通えるようになったのも技術の進歩のおかげだ。男性の意識改革より技術改革の方がずっと早い。
 それでも私はAAが好きだった。オジイチャン達は若い小娘である私を可愛がってくれたし、少ない女性メンバーと陰口を叩くのも楽しかった。オジイチャン達は少し得意げに、「月美ちゃん、俺たちみたいになっちゃ駄目だよ。月美ちゃんはAAにも遅刻するほど怠け者だろ。ホームレスになったら早起きして空き缶拾ったり勤勉でなくちゃ。月美ちゃんには決して務まらないよ」なんて私をからかった。オジイチャン達の中には家がない人も家庭がない人も、仕事がある人も年金がある人もない人もいた。でも皆一様にアル中で、「今日1日飲まない」、そのたったひとつの目標のためだけに集まり続けた。私は「今日1日正直に生きる」と唱えさせてもらった。

 当然、トラブルを抱えた者達の集まりなのだからトラブルも多かった。クリーン(飲酒をしていない期間)の長さでヒエラルキーもある。「噂話や陰口がわたしたちの中にありませんように」と最後に言うのが決まりだけれど、実際はそれらの宝庫で散々な目にも遭った。私だって、「ようやくクリーン一年目です! 努力と根性でここまで来ました!」なんて言う男性メンバーの話を聞いて、「お前の努力と根性を支えるためにどんだけ女房子どもが泣いたと思ってんだ」と影で毒づくくらいには自助グループに馴染んでいたし、初めて来た仲間が「酒をやめて、これからは趣味に生きます!」なんて宣言すれば周りのメンバー達の失笑を買った。オジイチャン達は帰り道、そんなことを言った仲間に「誰でも最初はそう思うんだよ。でもな、俺たちに趣味は無理。最高の快楽を知ってるんだから。どんなに好きなものが出来ても、俺たちには全部二番手。家族が泣いても仕事失ってもやめられなかったほどの酒を超えるものなんてあるか? 趣味は諦めて、酒やめることだけに人生かけな」なんて偉そうに諭したりしていた。ホモソーシャルと言われればそれまでなのだけれど、オジイチャン達はしょっちゅう「先輩」「後輩」と笑い合っていた。聞き慣れない大学名だと思ったら精神病院の名で、松沢に久里浜、ときどき赤城。閉鎖病棟のある入院施設の何期生だなんて言い合って全然自慢できない経歴を晒し笑い合っていた。

 自助グループは酒をやめても通う。むしろ、酒を飲んでいる間は病院に居られるけれど、やめてしまえば治療は終わる。外の世界に放り出された後、いくらでも酒が飲める環境でそれでも飲まずに過ごす。そのために自助グループに通うのだ。だから、クリーン歴30年なんていう、もう通う必要ある? と思われそうな仲間も通い続けていた。あの最低最悪な自分と過ごした日々を忘れないために。私はそんな仲間の話を聞いて何度も泣いた。内容の悲惨さにではない。誠実さに心打たれることもあったけれど、それだけじゃない。語りの上手さにだ。自助グループに通い続けると皆「十八番の話」が出来てくる。最後に酒を飲んだあの日。周りに誰もいなくなったあの日。いわゆる底つきと呼ばれる、人生で一番悲惨だったあの日を忘れぬよう、事あるごとに繰り返し語る。それがオハコの話。

当人が酒をやめた日を、生き直し始めた日として「バースデー」と呼ぶ。会によっては一年目、二年目、と積み重ねる度メダルが貰えたりする。余談だが、NAは薬物依存症者の集まりだけあって記念グッズのデザインがお洒落だ。さすがクラブで育まれた感性は違う。私が通っていた後期高齢者だらけのAAはそんなお洒落グッズなどなく、誰かのバースデーは近くのたい焼き屋でたい焼きを買って食べるのが習わしだったのに、酒をやめて甘い物ばかり食べ続けたオジイチャン達の糖尿病のせいで「糖質オフソフトクリーム」を食べる羽目になっていた。私は誰かのバースデーの度に、その誰かのオハコの話を聞いた。何度も聞いた話。何度聞いても辻褄が合わず、聞くたびに細部が磨かれる話。そんな話を聞きながら、私は涙を溢してソフトクリームを舐めた。
 オハコの語りは落語に似る。人情噺、その他諸々。私は小学生の頃、落語をいくつも覚えていた。両親の喧嘩が始まりそうになると一席打つ。それで急場を凌いだのだ。私の十八番は『ちはやふる』。いかにも私の好みそうな論理的整合性を選び取る、小学生には早熟な話である。
 仲間の話は年月を経ると、内容は同じでも語りが変わってくる。どんなにセンセーショナルな話でもベタは駄目。聞いていて飽きる。この場において、不幸話なんか溢れていてありふれているのだから。ベタがネタになったとき、初めてみんなが“本当に”聞いてくれるのがわかる。語りの主語が、接続詞が変わる。すると見え方が変わる。これが主体性を獲得し責任を取り戻すってことなんじゃないかなんて、私はその変化する語りを聞きながら思ったりした。
 だって、語りの呼吸すらも変わるのだ。仲間の守秘義務を遵守して『ちはやふる』で喩えれば、最初は「神代も聞かず竜田川 唐紅に水括るとは」と喋りたいことをぶちまけるだけだ。別に最初はそれでいい。喋れるだけすごい。でもそれは繰り返されていくうち、おのずと変わってくる。まず、「神代も聞かず竜田川」までは軽く流す。「唐紅に」で一旦止める。聴衆の唾を飲む音が聞こえる。皆が続きを待っている。「水」。きたきた! こちらは思わず前のめりになる。「括るとは。」最後の句点までハッキリわかるほど、ゆったりと締める。
まさに芸である。これぞベタがネタになった瞬間である。ここまで来れば、語り手は自己憐憫に浸るよりも聴衆を聞き惚れさせることに意を注ぐ。自分の傷に仲間の感嘆がくっ付く感じ。傷が治るわけじゃない。でも、そのことを思い出す時に周りの反応も一緒に思い出す。傷はあるけどひとりじゃ無くなってくる。

自助グループは数年に一回くらいの頻度でコンベンションというものが行われ、様々なグループが集まり、各グループから代表者一名が壇上に上がって語る。誰でもいいのだけれど、やはりクリーン歴が長く語りが上手い人が選ばれることが多く、その日は皆の気合が違う。様々なグループの様々な語りを聞くのもそれはそれで面白いのだが、どうしても自分のグループの話に聞き耳を立ててしまう。なぜなら、「正直である」ことが何より大事とされる自助グループで、我が代表が“本当に”正直なのか、皆突っ込みたくてうずうずしているからだ。喫煙所に行けば、さっきまで壇上であんなに聴衆を感動させていたグループ代表が、仲間達に大笑いされている姿を必ず見る。大体、「◯◯さん、いつもは『閉鎖病棟から出た翌日には酒を買いに行ってた』って言うのに、今日は『閉鎖病棟から出たその足で酒買いに行ってた』って半日早まってるじゃないっすか!」とか言われて、「そうなんだよ〜。俺、すぐドラマ作っちゃうんだよな〜」なんてクヨクヨしている。こういうことを仲間に突っ込まれるとかなり恥ずかしいので、当人は「ドラマ作らない」ことを心掛けるようになる。つまり、大きな事件や災害が起こってもスリップ(再飲酒などアディクションの再使用)しないように気を付けるようになるのだ。合成の誤謬の体現者である依存症者はいつだって理由を探している。「離婚されたから」「仲間を亡くしたから」。そんな理由でまた飲み始めるドラマ作りを避ける。「話を盛る」ので有名だった仲間は3.11.のときに、「『津波の映像があまりにショックで飲み始めちゃった』って、やらないんすか?」と散々からかわれ、「俺はもうドラマはやめたんだよ!」と0calコーラを飲みながら怒っていた。私はそういう仲間達の姿を眺めながら、こういうのが味わいなんだよ。ドラマティックなものよりずっとずっと語るに値するよ。と、いつも思っていた。
依存症の回復は、足→耳→目→口の順番だとも言われる。行く場所が変わる、そうすると聞こえてくる言葉が変わる、世界の見え方が変わる、最後に話す言葉が変わる。そうやって、私と仲間達は「今日1日」を紡ぎ続けて来た。

つい先日、語りの名手であるIさんが亡くなった。享年89歳。私を最初にAAに誘ってくれて、私を初めて語りで泣かせた人だった。私の仲間は頻繁に見送らなくてはならないため、年に一回合同追悼会をしている。個別に葬儀に行くとつら過ぎるから。自分に何かできたのではと思ってしまうから。なんで自分じゃなかったのだろうと責めてしまうから。遺された者が抱くサバイザーズギルトと呼ばれる罪悪感と共に生きるため、故人を悼むため、年に一回、必ず祈る日がある。けれど、Iさんの葬儀は皆が行った。老若男女の依存症者達。皆泣きながら嬉しそうだった。長きに渡るアルコール依存の後遺症で幾つもの持病はあったけれど、Iさんはざっくり言えば老衰だった。クリーンは30年以上続いていたのに、最期まで自助グループに通ってくれた。離婚され子ども達も会ってくれなくなっていたIさんは自助グループから帰ったら必ず料理をすると言っていた。「俺には仲間しかいないだろ。だから自助グループの後に独りの部屋に戻ると寂しくなっちゃうんだよ。それでまだ飲みたくなる。だから料理すんだ。手順決めて次々こなす事があるから余計なこと考えずに済む。みりんを使わない料理って色々あるんだぞ」。
 薬物依存の仲間も来ていた。強面のその仲間は顔をぐっちゃぐちゃにして、嬉しそうに泣いていた。「月美ちゃん、良かったよな。『覚醒剤やめますか? 人間やめますか?』ってあんだろ。俺は即答するよ、人間やめたいからクスリやってんだ! って。でもさ、あいつは人間になって死ねたな。ほんと良かったよ。ほんっとに良かった」。
 Iさんは精神科で初めて会った私に、「あんた何やってんだい?」と聞いてきて、私が「大学生なんですけどウツで休学中で……」とモジモジ答えると、「そりゃあ、いい! ウツ休みも夏休みも似たようなもんだ!」と言って自助グループに誘ってくれた。「何やってんだい?」って、酒かクスリかってことだったんだよね。20年経ってようやく気づいた私は葬儀の帰り道、皆と一緒にソフトクリームを舐めた。やっぱり、糖質オフは味気ないよIさん。

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