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「記す」という祈り

2018年、森友学園の公文書改ざん疑惑を受けて、虚構新聞はこんな記事を出した。
「後から文字は書き換えられる」というこのニュースの事実に着目して作られたフェイクニュースだ。

「インターネットに放たれた情報は半永久的に残る」という言説はもはや廃れた。管理人がいなくなってサイトが閉鎖されることもある。Twitterでもインスタでも、アカウントは簡単に削除できる。

私たちが今、ここでネットの海に放り投げ続けているこの情報も、いつ消えてしまうかわからない。残ってゆくのかもしれないし、ある日突然noteというサービスが消えてしまうかもしれない。

でも、それでもいいと私は思う。私たちの思考は流れ、変化する。昨日の自分が何を考えていたかなんて自分自身でも覚えていない。忘れて、たまにふと思い出して、嬉しくなったり悲しくなったり。運良く脳のメモリに残ってくれた、断片的な記憶の積み重ねで今の私たちはできている。

日々あったことを忘れたくないから、私たちは日記をつける。文字にして、この現実にモノとして縛り付けておきたいと願う。

ここに私が記す理由も、今の自分の思考を少しの期間でもいいから残しておきたいという、流れ星への祈りのようなものだ。儚いものに対する儚い望みなのだ。

それでも祈り続けてしまうのは、なぜだろう。きっと、今の自分を作り上げているもの、記憶、それらに対する愛のようなものが、それを忘れてしまうことを許せなくて、かりそめでもよいから残しておきたいという切なる願いが、心の奥底にあるからではないだろうか。




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