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「見えない/見える ことについての考察」を観て

大分前のことになってしまうが、夏に東京都現代美術館で「おさなごころを、きみに」という展示を見た。夏休み期間になると、都現美の企画展の1つは必ず子供むけのものになる。子供も大人も楽しめるものをつくると言うのは面白いなと思って、子供でも大人でもなかった高校生の頃から何となくほぼ毎年見ている。今年は例年に比べて、デジタルに焦点が当たっている物が多い気がして時代の変遷を感じた。デジタルネイティブの子供にとっては、こういうのってどう映るんだろう?さて、その中で、印象に残っていたのが「Co(AI)xistence」と言う映像作品。作品自体は、数年前に発表されたもので、AI搭載のロボットと森山未来が対話し踊るというものだった。子供のときにもし私がこれを見ていたら、人に限りなく近いがやはり今はまだ人ではないロボットの様子を、大分不気味に感じたのではないかと思った。と同時に、ちょうどテッド・チャンの「ソフトウェア・オブジェクトのライフサイクル」(『息吹』に収録されている短編)を近い時期に読んでいたこともあって、凄く心に残った。人間を人間たらしめるものって何なのだろう。身体って何なのだろうと思ったのだ。人間の形をしたロボットとは、ただのシステムなのか、それともシステムを超えていく存在なのか、とかそんな感じ。ロボットに真摯に問いかけ、そしてしなやかに動き踊る森山未来がすごく気になった。

森山未来のダンスのパフォーマンスを実際に見てみたいなぁと強く思った。そんなことを考えていた折、「見えない/見える ことについての考察」という公演があることを知り、見にいくことにする。

https://youtu.be/QttD5cntMJY


ジョゼ・サラマーゴの『白の闇』という小説から着想を得ているということで、事前に手に取った。ある日、視力を消失し目の前が白に覆われたようにしか見えなくなる感染症が流行する。世の中はパニックになり、感染者は隔離され、、、という話なのだが、あまりにも2020年に読むべき小説だと思った。読み進めながら、強烈なショック、ストレスを受け限界状態になっていく人間たち、そしてその中でたった一人だけが視力が保ち続け観測者として描かれる様が凄まじすぎて、最早途中で「あーーー何で読み始めてしまったのかな」と思うほどだった、、、。もう他人事じゃない世界の話に、スッと寒気がしたのは言うまでもない。何とか読了し、公演を横浜まで見にいった。横浜に行ったのは、すごく久しぶりで横浜ってこんな所だったっけ、とぼんやり思った。
会場は、それほど広くないスペースで、椅子とスクリーン、カメラ1台、そしてストロボが2つ設置されたごくシンプルなものだった。舞台と客席が思いの外近く、妙な気分になった。普段画面でしか見ない人が、確かに実体としてそこにいるのに、最後まで現実感がなかった。公演内容は、『白の闇』と『白日の狂気』(こちらは未読だったけど、読んでおけばよかったな)のリーディングとともに、スクリーンへの映像投影、ストロボの光の点滅、事前に配られているイヤフォンからの音声、そして森山未来のダンスが少しずつ混じり合い、そして少しづつ消えていくというものだった。不規則な重なりや、反復、突然の光に感覚の揺らぎを覚えた。また、公演は2部構成になっており、内容は前後でほぼ同じなのだが、少しずつ違いやズレがありこれも奇妙な感覚を引き出していたように思う。そして、森山未来のダンスは、人の身体ってこんな風に動くことができるんだ、、、と思わされた。あまりにもそこにあるのは人間の身体なのに、普段見ることのないその動きは別の何かのようであった。

結局のところ、公演をよく理解できたかといえば、できなかった部分も多かった気がする。本公演のイントロダクションにもある、『白い闇』からの引用「私たちは見えなくなったんじゃない。もともと見えてなかったのよ」の言葉の意味をいまだに考えている。たくさんの情報があっても、私たちが見えていること、理解できていることってあんまりないのではないか、と。「Co(AI)xistence」にはじまり、この公演を観に辿り着くまで何となく頭にあったことは、内容の反転だったなと思う。生命とシステムとか、見える見えないとか、身体と物体とか、、、両極に思える2つは、現代においてヒラリヒラリと簡単に反転しているのかもしれない。いまだににふと、頭の中で白い光が点滅した瞬間と、突然スクリーンに映った観客側の映像が思い出される。

#森山未来 #パフォーマンス #白の闇

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