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「公共」についての考察-Twitterの滅びから考えたこと

論争の火種は、男女や老若、貧富などの二項対立です。
しかし、なぜこれらの論争が行われるのか、特に娯楽以外の場合は、その議論の必要性が問われますが、議論の場は大方決まっています。日本ではTwitterとYahooでしょうが、その嚆矢たるTwitterがうまいこと滅びそうです。こうしたところで議論が過熱すると相互不信も生みますが、情報検索プラットフォームとしても有用だったので悩ましいところです。ウクライナもフランスも大変な時に民間がOSINTしにくくなるなあという懸念もあります。

さて、人間は社会を構築して生きており、社会は自然に発生したものではなく、契約によって成り立っています。契約とは契約書があるものではなく、合意形成ということです。この合意が、特に揺らぎやすかったのがSNSの登場です。まさに船頭多くして船山に上る。個人がお気持ち表明を続ける限り、この事象は形を変えて続いていくでしょう。

で、公共です。公共とは、個人と国家の間にある空間を指します。それは物理的なもの、そして観念的なものも踏まえて。個人と国家の在り方に対しての公共の役割についての議論は、サロンの成り立ちにあるとハーバーマス先生が指摘しています。

人民が集まって会話をして意見表明する場所、サロンの存在は、「私たちが生きているこの街をこうしたい」という意見論評に溢れることになります。その溢れた思いは社会改革へつながっていく。これは近代欧州から現代社会まで形を変えて連綿と受け継がれています。

王権を倒すためにサロンが生まれたのか、サロンが生まれたから王権が倒れたのかといった関係性は要研究ですが、人間が社会というシステムのなかに公共というものを手に入れた瞬間なのでしょう。

また、最近では自己責任や自己決定権という言葉が社会を揺らがせていますが、個人主義はアナーキズムとも通じるものであり、無政府主義を装って反政府運動を行う人々も存在します。
そうした要因で、個人主義と国家主義の間の公共がないがしろにされることもあります。

しかし、公共を守るのは個人と国家の双方であり、両者が歩み寄る必要があるのです。そのような歩み寄りがあることによって、公共を守ることこそが平和をもたらすのではないでしょうか。このように、個人と国家が妥結する空間が公共空間と言えるのです。

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