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【ショートショート】敗者復活の日

「歯医者行けよ」
 開口一番、妹の千秋はそう言い放った。
「確かに、お前の兄ちゃんは敗者だ」
「ちげぇよ。そのみっともない前歯を修理してこい。ついでに腐った性根を改造してもらえ」
数か月の滞在には小さすぎるスーツケースは大型犬なら一匹も入らないだろう。父が運転する車に乗って千秋が帰って来た。俺が会社を辞め、実家に住み、やっとのことで新しい職に就いた五年の間に千秋は結婚して、妊娠して、出産をひかえる身になっていた。そして、十数年ぶりに家族四人での生活が始まる。
 
  千秋は娘としての責務を全うしている。国立の大学を卒業し、新卒で就職し、転職をして大学時代の先輩で消防士の陽介君と結婚して、両親に孫の顔を見せるまで秒読みだ。一方俺は、今でこそ職に就いているが、前の職場ではミスを繰り返し、上司の叱責に心とプライドが擦り切れ、自殺を考えるが死にきれず、逃げるように退職して旅に出た。旅行などという陽気なものではない。放浪にも近い旅だ。リュックの中にねじ込んだ文庫本五冊は、最初の一週間で読み終えた。手ごろなベンチに座り込み、夜の闇で本の文字が読めなくなるか寒さに耐えきれなくなると本を閉じて宿を探した。宿のほとんどはネットカフェだった。どうしても手近にネットカフェがない時は野宿もした。ちょうど三か月が経った時、俺は実家へ帰った、逃げ帰った。俺がこの旅で学んだことは家族の温かさでも、読書の楽しさでも、旅の面白さでもない、ましてや見失った自分とやらを見つけたわけでもない。
 俺が得た教訓は、『この世には劇的な出会いなど無い』だった。
 旅の最中、俺の心は僅かに回復していた。僅かにできた心の隙間に、暗い顔をしていれば殊勝な人おじ様が「おい、大丈夫かい?飯でも食やあ元気出るさ。ついてきな、俺のおごりだ」とか、慈悲深い淑女が「つらいこともあるだろうけど、人生捨てたものじゃないわ。これで美味しいものでも食べて」手を差し伸べておひねりを掴ませてくれるかもしれない。淡く浅ましい期待を抱いていた。しかし、誰も俺に話しかけることはなかった。元々、老け顔と言われている俺は不精髭をたくわえ、髪は伸び放題で薄汚れた作業着の上着を身に着けている。そんな男に誰も話しかけたくないだろう。俺の浅ましい心は見透かされていたのだろう。旅の後半には、すれ違う人が俺を見てあざ笑っている気がする、向こうから歩いてくる人が元上司や元同僚に見えて路地に身を隠したり、来た道を引き返したり意味のない行動をとった。できるだけ日が出ている間に出歩いた。昼間は多くの人が自分の仕事に夢中だから他人に目がいかない。夜になると仕事を終えた人間が街に出てくる。そして誰かが、いつか俺を見つけて指をさしてあざ笑うのだ。俺はそんな想像を、妄想を毎日抱いていた。そして俺は誰にも見つからぬまま、生まれ育った実家に逃げ帰った。
 
 新たな職に就き約五年。無気力な生活の中で俺の心と体は肥え太っていた。そして千秋が帰ってきた。
 俺は歯医者が嫌いだ。まず建物が気に食わない。潔癖な教会のような見た目でそれなのに中ではおぞましい治療が行われている。悪の秘密結社が改造人間を造る時のベッドに寝かされ、治療用と思えない様々な形のドリルと恐るべき吸引力のホースを口に突っ込むのだ。改造人間の製造が目的でなければ拷問だ。そして決め台詞のように「あぁあ、なんでこんなになるまで……」と説教をするのだ。以上、俺が歯医者に行きたくない理由だ。
「歯医者行けよ」千秋の言葉は俺の歯医者理論を一蹴した。
「いや、だから歯医者は……」と反論しようとすると「行けよ。文句言わずに。ただでさえ悪い人相が最悪になるよ、前歯が欠けてたらさ」 
 
 数年間の怠惰な生活がもとで俺の歯は虫歯建設株式会社の採掘現場になっていた。特に二つの前歯の中心は発破解体されて崩壊寸前だった。どうせ、一生結婚することはないだろうし、結婚のために努力する気もない。見た目など、どうなろうといい。見た目がましな時期もあった。だが、今は肥え太ったプライドが他人との出会いをあきらめ寝そべったまま動かない。だが、妹の千秋の言葉にほんの少し目を開こうとしている。
 
 鏡を前に口を「い」の形にすると爆心地がよく見える。中心は黒く周りは茶色くて本当に爆撃されたみたいだった。まずは歯医者の評判から調べてみることにした。そして、とにかく優しい対応だったと記述がある歯医者を見つけた。
 
 今、俺は歯医者の建物の前にいる。デンタルオフィスという小洒落た名が気に食わないがまあいいだろう。狂気の科学者の根城よろしく怪しげな配線も無ければ謎の電波を発信するアンテナもない、ほとんど直方体のデザインだ。とりあえずは合格。予約はしていない。予約されていない方はお断りですと言われれば、潔く身を引くつもりだ。侍として潔く。
 入り口は自動ドアだった。中に入るとスリッパに履き替えさせられた。ここまではよくある。そして匂いだ。匂いはなんと甘酸っぱいフルーツのような匂いがした。アロマか何かだろう。小賢しい真似を……あの潔癖な漂白された歯医者独特の匂いよりましだ。合格。受付の男性は怪訝な顔などすることなく笑顔で予約の有無を尋ねた。俺が予約をしていない旨を伝えると慣れた動作で問診票を渡し、代わりに俺から保険証を受け取る。ここで受け付けは女性のほうが点数が高いと思われがちだろうが、同性のほうが妙な先入観や嫌悪感を抱かれずにすむ、合格。グリフィンドールに十点。
 問診を受付に提出した。『その他』の欄には「長年の不摂生でボロボロになった歯を治したい」言い訳をと書き添えた。
 数時間待たされるようなら帰るつもりだったが三十分ほどで名を呼ばれた。受付の横にある扉を開けて席に案内された。治療室は俺の知るそれと同じで「騙された!」と思ったが遅かった。閉ざされた扉は治療という名の改造が終わるまで開かれることはない地獄の門『ヘルズ・ゲート』だ。そんなことを考えていると一人の女性が治療台の傍らに座った。髪は黒く短い、軽くウェーヴがかかっている。口元は大きなマスクで見えないが目は少しツリ目だった。たとえるならばキツネ猫だ。次の瞬間には治療台を倒し金属製の細い鉤暴と鏡つきの棒の二刀流で「大きく開けてください」と開口を促した。その声はきついツリ目とは裏腹に優しく慈悲深く甘い声だった。地獄に仏とはこのこと、俺の傷んだ歯を眺めながらも顔色一つ変えない彼女になら、このまま手を喉の奥まで突っ込まれて心臓を引き摺りだされてもいい。欺瞞と薄汚れたプライドにまみれた心臓を引きずり出して燃えるゴミの日に捨ててほしいとさえ思う。妹は、千秋は正しかったのだ。一歩を踏み出した俺を神は見捨てなかった。発破解体され廃墟と化した俺の葉を建て直すには何か月、いや何年かかるかわからない。だが、治った日にはこの女神をカフェに誘おう。いやダメだ。コーヒのステインとやらは歯にこびりつくし、パフェなどの甘いものはもってのほかだ。やはりカルシウムだろうか、牧場だ牧場がいい。カルシウムたっぷりの牛乳を飲み、キシリトール入りのガムを噛み、歯ブラシを買いに行こう。幸福な妄想にとらわれた俺の脳を女神の声が呼び覚ます。治療台を起こし「うがいをしてください」とにこやかに告げた。悪の秘密結社が改造人間を作るときのベッドだなんて思ってごめんなさい。ゆりかごに訂正します。
 「待ってくださいね」と言って女神はカチャカチャと準備を始めた。
そして「じゃあ始めますね」という女神の言葉に安堵し、倒れ行く治療台に体を委ねて口を大きく開くと俺を除き噛んできたのは女神ではなく悪魔だった。
 悪魔というよりは秘密結社の狂気の科学者だ、マッドサイエンティストだ。背は低く、やたら黒い髪をオールバックにしている。レンズの大きな眼鏡の奥では左右非対称の細い目が光っている。顔に浮かんだシミはこれまで改造してきた人間たちの血しぶきの跡だろうか。たとえるなら、あの人だ。吉本新喜劇のミスター・オクレだ。ならば悪魔より死神だろう。今すぐ逃げ出したいがヘルズ・ゲートは閉ざされている。
 がしゃ、がしゃ、がしゃ。金属的な音が聞こえた。俺の足、胴体、腕が治療台から飛び出した金具で拘束されていた。状況が呑み込めず呆然と前を見開いていると、「オータム様に敬礼!」という畏まった声の後にカツカツとヒールの足音が聞こえた。ヒールの持ち主が傍らに立ったので目だけをそちらに向けるとオータム様は黒いエナメル質の服に身を包み白衣を羽織っている妹の千秋だった。童顔の妹には似合わない。妹は死神みたいな男と何やら言葉を交わし始めた。
「よろしいのですか?オータム様。残念ながら彼は改造しても一般戦闘員にしかなりません」
「構わないわ、でも……」妹はゆっくり俺を見下ろしながら口を開いた。「でも、歯は綺麗にしてあげて」
 

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