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かたちを変える

毎日家でコーヒーやお茶を飲む時に使うマグカップ。マグカップという存在そのものが好きで素敵なものと出会う度「うちの子になるかい?」とすぐに連れ帰ってしまう。
その中で1軍ローテーション入りしたいくつかのカップ達はすぐ取り出せる場所にストックし、(何も考えず手に取ることもあるけれど)容量や手に収まる感じ、口が触れる感覚、その時飲みたいものとの相性が合うものを選び使う。それは日常の中の小さな楽しみだったりする。自分は選択肢がある状況をすごく心地よく感じる性質なんだとこういうところでも気づかされる。

そうやって1軍カップ達が出番を待つ籠の中で、一つのカップの取っ手の接合部が割れ、取れた取っ手は3つのかけらとなっていた。落としたわけでもぶつけたわけでもなかったのに、気づくとそんなことになっていた。家族に何か知っているか確認しても誰も何も知らないという、私も全然身に覚えがない。
それは手に取った時しっとりと収まるやさしくマットな手触りと口に触れるたびあたたかく感じるようなくち当たり?を持つマグカップで、2~3年前の年末、気心知れた先輩からの誕生日とクリスマスと1年間お疲れ様がこもったおくりものとして我が家にやってきたもの。在宅勤務が増えて、表面に加工があるから内側についた飲料由来の着色は落としづらいと説明書きにあったのでわかっていたけど、使い心地の良さから毎日のようにコーヒーを飲むのに使っていたマグカップだった。


人知れず静かに形を変えてしまったマグカップ。
きれいに取っ手の部分だけが取れたので、取っ手と繋がっていた部分にやすりをかけ「取っ手のないカップ」として使い続けることにした。
Google先生の検索窓に「磁器 やすり」と入力しどういうものが適切なのか教えを乞う。いくつか種類があるようだけど、100均でも入手可能のようだったのでさっそく捜索に行くことにした。
100均って本当になんでもある。これが100円?から、こんなの誰が買うんだろでも100円だからな…までなんでも。でも、目的を持っていくとあっさりなかったりするから過度な期待をせずに、行ける範囲のうち売り場面積の広い100均に向かう。どの番手のやすりだとどのくらいのペースで研磨されるのか全く予想が出来なかったから、その100均にあった紙やすり(木材用・金属用)と耐水ペーパーを一揃い購入する。きっと粉塵が舞うだろうけどマスクはあるし、ゴム手袋もある、いざとなったら娘の水泳のゴーグルを借りれば完璧だ、うまくいくイメージを膨らませながら研磨を楽しみに帰宅する。


いざ研磨を始めてびっくり、全然削れない。やすりは磁器の硬さの前で次々とやすれない代物になっていく、それでも本体から取っ手へと繋がっていた5mmほどの高さの跡地はその高さを変化させることはない。抱いていたのは、カップ本体側面に段差のない、フルフラットな、完全に「取っ手のないカップ」に生まれ変わらせるイメージだったけど、ものの5分でそれを叶えるためには想像をはるかに超えた相当の研磨が(時間もやすりも腕の筋力も)必要だと悟った。そして、こんなに硬いのに落としもぶつけもしないのに取っ手が割れた不思議を思った。

目指すところを「フルフラット」から「指が触れた時に嫌じゃない程度」へ切り替えひたすら削る。ひたすらひたすら。見た目にわからなくても触れるとなめらかになっているのがわかる、そうすると嬉しくなりまた削る。
そんなことを繰り返し、使うやすりの目の粗さを徐々に細かいものにかえながら削ること1時間。原料になっているものの粒子の細かさでしっかりと目が詰まった磁器の味を感じるなめらかで滑らかな跡地となった。取っ手の上側の本体との接合部は少し凸な跡地、下側は逆にすこし本体がへこんでいたけど、その窪みには薬指をおくとちょうどいい塩梅だった。
研磨の前の状態も指で触れてもなんともないくらいスパッと取っ手は取れていたけれど、なめらかに削ってこれで安心してこれからも使い続けられる。薬指の定位置があるカップなんて他にない、すてきなカップだ。



本体から取れて3つに割れてしまった取っ手もなんだか捨てられなかった。同じように断面を削る、本体はやすりを動かして研磨していたけど、取っ手はパーツが小さいから、置いたやすりの上に断面を押し付け取っ手の方を動かして削る。削ると白い粉が舞う。地の色が白に近い磁器の欠片なんだけれど、マグカップの骨を扱っているような不思議な気持ちになりながら削る。
取っ手が取れたことでマグカップではなくなってしまったけれど、だからといってその存在がなくなってしまったわけではなくて、その断面に手当は必要で形は変わってしまったけれど、自分のそばにあり続けることに変わりはなくて、それはこのあとも続いていく。
そんなことを思いながらがりがりとやすりに取っ手の欠片をこすりつける。だいたいなめらかになったら、3つ一緒に手の中に収めて握る。しゃりしゃりと3つの磁器の欠片がこすれる音がする。ひんやりと、すべすべとした手になじむ感覚はこれまで指の内側でしか感じえなかったけれど、かたちを変えて手のひら全体でそれを感じることができている。


水切りかごがいっぱいでとりあえず、と、つい重ねた薄いステンレスのタンブラーがよくない力のかかり方をしたんだろうな、と原因として考えられることを思い浮かべる。だけど、自分が見ていないところで取っ手が割れてしまった今、それはもう、どうやったって推測の域を出られない。何枚もの「やすり」を「やすれない」に変えてしまう程硬い硬い磁器でもぶつかるもののタイミングや角度なんかでポロっと割れてしまうことがあるんだ。かたちを変えることのきっかけなんてほんのささいなことで、たまたま、偶然、タイミング的に、そういうことになってしまうことがあるんだ。いろんなことを当てはめてしまう。


自分の毎日の景色にあったマグカップが割れてしまった、気に入っていて、縁を感じるもので、それを使う時間が好きだった。形を変えてしまったことはびっくりで残念で、あってあたりまえだったものが突然目の前から消えてしまったような感覚がショックでもあった。
それでも、割れてしまったマグカップは取っ手のないカップとしてこれからも私の毎日にあり続ける。3つになってしまった取っ手は、長い時間をかけて角が取れ丸くなった海の石やシーグラスと一緒に私の毎日にあり続ける(写真の石とシーグラスは友人がくれたもので、とてもかわいらしいものたち。よく取り出してその感触を楽しんでいる)。
ものや思いのかたち、それが変わること、それも含めて続いていく自分の時間。そんなことを3つの欠片を手の中でしゃりしゃり言わせながら考える。今このタイミングで、こう考えるために、取っ手は割れたのかなと考える。


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