共有するということ

について、考える機会があったので、残しておこうと思う。コロナ渦で増えてきたライブ・コンサートや演劇の配信によって、ガチの地方住みとして享受したものと、生、ライブの良さの間で考えた、感じたことについて、書いてみます。

共有には、たくさんの階層があると思うけれど、まず、生・ライブでは、空間、時間を同時に共有できる。そこで得られる最も大きなものは、『温度感』ではないかと感じている。空間の共有は演者とだけではなく、その場にいる観客間の共有でもあり、それによって、得られる高揚感や緊張感は、桟敷席まで満席の小劇場と空席の目立つホールでは、まるで違うものになるだろうし、そのライブや演目に対する満足度にもかかわってくる、大きな要因となりえる。

映画館で行われるライブビューイングの熱量が高いのは、空間と時間の共有が行われていることが大きいからだと推測している。演者との空間の共有はできないが、観客同士の空間共有と、演者・観客間の時間の共有が行われている(大半の場合は、演者と空間を共有できる観客も存在するので、そこの熱量も画面越しに共有することになる)ことで、足りないものが少ない。また、もともと映像化する計画のあるような規模の大きな、人気のあるグループや演目で行われることが多いため、映画館は埋まる。さらに、スタッフさんのスキルが高いことも、観客の集中を削がない、より観客が楽しめるコンテンツを届けるためには重要だと思う。

これに対して、最近かなり増えてきた、個人で見られる配信について、コンテンツの消費者として、難しいなと感じることが多い。
本当に「生」で配信する場合には、舞台やライブ会場を定点で見せるわけにはいかないし、大手でパッケージとして販売するためにたくさんのカメラで撮影して、後日編集するのとはわけが違うのではないか。これは勝手な想像なのだけれど、かなりの手間(カメラのスイッチングやエフェクト調整などのリハーサル)が必要となるのではと想像する。そうなると、実際問題、コスト面では上がってしまうと思うのだけど、どうなのだろう。コスト的な問題は、特に昨今、公演が行えない小規模の団体が配信を行うことの高いハードルとなるのではないだろうか。

実際に、複数回の公演の前半で録画をして、後半で編集・配信したもの(小劇場の演劇)を観たのだけれど、この場合の難しさは、「生」でないことだなと感じた。空間の共有は難しいことは前提として理解していたが、時間の共有もできないことで、見逃すことに対する不安がないので、集中力を保つのが難しく、テレビドラマを流し見している感覚が抜けなかった。
友人が出演していた関係で観たので後に確認したのだけれど、最初の撮影時には、照明等の関係で全く見えなくなったり、音が割れたりということが起こって、部分的に撮り直しをしたそうだ。生をそのまま配信するということがいかに難しいかを(この場合は無理があったということだし)知った出来事だった。
また、記録映像を無料配信するのとは違い、劇場で観るのと同じお金を取って、配信を行うにあたっては、とても誠意のあるやり方だと思ったが、生ではないので、その配信コンテンツは1パターンしかないけれど、チケットを日ごとに販売していたので、そこはどうなのだろう。少し疑問には思った。1回見れば、編集されたコンテンツだということはわかるが、観る前に数公演買った人がいたとしたら、それは思いが違うのではないかと、一観客としては想像できる。
ライブのものを同じ演目を何度も見る観客は、その演目に対する思い入れや好意とともに、その日の演者を見て、空気を感じに行くのだと私は思っている。例えばライブなら、セトリやМC、アンコール曲の変化があると、とてもうれしかったりするし、特に千秋楽などは、期待する。映画のように、パッケージを特殊な空間で楽しむ物とは、少し違うと思うので、生配信でないのであれば、明確な告知や視聴期限での調整が必要なのかなと思った。まぁ、人気コンテンツや有名どころは、その辺のリスク回避は問題ないだろうと思うが、特に配信に慣れていないような小規模集団の場合には、他でも起こりうるのかなと思う。

テクニカルなことや、興行的なことを置いても、「生」配信だとしても空間の共有ができない分、集中を保つことが難しくなってくる。画面の大きさや音量でどこまで臨場感を保てるかとなると、コンテンツ事態の強さと、そのコンテンツに対する観客のモチベーションの高さは、ライブ配信のポイントなのかなと勝手に感じている。


つらつらと、配信の弱さについて書いてきたが、実際、「生」配信の場合の良いところは、時間は共有できるところだと思う。そして、生でないとしても配信されるということは、これまでパッケージ化されないものは見ることができない状況にいた、「チケットが取れない」「物理的に遠い」「身体的に不利な状況」など、観たいけれど行けない人にとっての「せめて同じ時間に見たい」という欲求を満たすことができるという、圧倒的なメリットを持っている。空間の共有はできずとも、時間を共有できているという喜び、そして、同じものを観ている人がいて、デジタルとはいえ繋がることができるのは、直接的な繋がりが減ったことで新たなつながり方を模索した結果、やはりある種の喜びであることを、多くの人が知ったのも、このご時世ならではだなと感じる。

かくいう私にとっては、まぁ田舎に住んでいるので、こういったメリットを享受できるようになったことは、正直喜ばしいのだ。これまで本気で追いかけてきた方々には申し訳ない思いもあるし、演者からすれば、目の前に観客のいない状況で、モチベーションは上がらないだろうと想像できる。けれど、既定のチケット代のみで、様々なものを楽しめることの楽さと喜びは、地方住みのライトなファンが移動や支出や次の日の仕事などを加味するとこれまでできなかったことを、あまりにもチケットの争奪戦が熾烈であきらめていたことを、形は変われど、出来るに代えてくれるのだから。その後、空間の共有を求めるファンも生まれると思う。逆もしかりだとは思うので、こればっかりは、わからないけれど。

劇場で、満席の客席に座って、2時間を過ごせるのは、幸せだ。ライブハウスで、アルコールを片手に、体を揺らして、飛び跳ねながら、爆音に溺れるのは、至福だ。アリーナで、見える姿は小さくても、そこにいて、歌っていて、体の全方位から音を感じるだけで、涙が出る。

それを、私は知っている。数年前まで、日常的に何かしらに通っていた身としては、忘れられない幸福だ。

けれど、それはきっとしばらく難しい。今の私にとっては、そこにたどり着くことの困難が、あまりにも大きい。難しいことは、ずっとできないわけではないけど。その状況に、少しずつ慣れてしまう部分もあるのは事実で、ある部分では、弱い人、それこそ、外に出ること自体にハードルがある人にとっては、良いことでもあるのだろうと思う。

今後、めいっぱい観客を入れることができるようになったとして、配信が無くなるのかと考えると、規模が大きかったり、人気のあるグループだったりのものは残っていく可能性があるのかな、と思ったりしている。そしてそれは、ある種の分断にもなりえるけれども(直接体験するということは、やはりとても経験としては大きいし、人気でチケットが取れなければとれないほど、その希少性は優位性になりうるから、どこかでひずみは生じる)、顕在化した、細分化されたニーズを満たすことにもなるのだと思う。

これからの数年で、エンタメ業界のライブに対するスタンスは、どのように変化するのだろう。空間を共有することで実際に感じられた、嗅覚や触覚の部分は、どれほどの重要性を持っていたのか、視覚と聴覚だけでは満たされないのか。視覚と聴覚の部分に対しては、デバイスの進化で変化は起こるのか。

業界にお金は使いたいが、明確に見返り(楽しめるコンテンツ)は欲しい、わがままな(普通か)な観客をどうやって取り込んでくれるのだろうな、エンタメ。取り込まれたいよ、切実に。

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