偏見と機会

偏見、先入観、抱いているイメージ、自体はどうにもならなくて。

それに反するような事実が判明したとき、素直に受け入れられるか。
「確からしさが高いほうに情報を更新できるか」が重要なのだと思う。


それに、そういった「事前にあたりをつける、期待値を設定する」ということは有効に働くからそうやってるので。例えば危険な人や地域には、近づかないですよね。覚悟が無い限りは。それは身の安全を確保するために必要なわけで。


偏見が露呈した他者に「そんな偏見を持つなんてひどい」と一発で社会生命アウト判定をする人というのは、情報更新機会、学習機会、弁明の余地、更生の機会、といったものを全く考えないのだろうか。

そういった「機会が与えられないまま社会的に終了」メソッドが猛威を振るい、巡って、自分に降りかかることを想定できないのだろうか。


十分な機会が与えられているにも関わらず、情報の更新ができない人間は、どうかと思う度が上がっていき、また別問題になりますが・・・。