「夢と現で廃墟を想う」第9話:過去世界

9.過去世界

 「おじさん、邪魔ばい」
 「そうや、邪魔ばい、邪魔ばい」

 「ん?」
 子供の声で、石和はふと我に返った。
 「そこばどけんね」
 「ああ、ごめん、ごめん」
 三人の子供が怪訝そうな表情を浮かべて石和を見上げていた。先程までの暗闇とは違い、ほんのりと薄日が差していて子供たちの顔を確認することもできる。三人とも小学生のようだ。二人は高学年で、小さい子は一年生か二年生といったところだ。
 「これから大事なことばやるんやけん」
 高学年の一人が石和に向かって文句を言った。
 「兄ちゃん、緊張するね」
 「うん」
 低学年の子の声に、もう一人の高学年の子が答えた。どうやら二人は兄弟のようだ。

 薄明りではあるが、三人の顔が紅潮しているのがよく分かった。鼻の穴も広がり、興奮を抑えきれないといった感じが伝わってくる。何か悪戯を企んでいる子供の顔だ。
 「なのをするの? 悪いことをしちゃだめだよ」
 石和が大人の対応で声を掛ける。
 「悪かことやなかばい」
 「みんなやりよーばい」
 「そうばい、そうばい」
 銘々が口を尖らせて反論してくる。
 「じゃ、教えてくれてもいいじゃないか」
 三人は顔を見合わせた後、仕方がないといった顔で、「そればい」と石和の後方を指差した。

 石和は子供達が指をさした方に顔を向けた。ここは小さな空き地のようなところだ。気が付かなかったが、そこには五十センチメートル角の薄汚れた木箱が底を上にした形でポツンとひとつひっくり返っていた。それを確認した石和は、はっとなって声を出した。
 「こ、これって、もしかして・・・・・・猫?」
 「そうばい。罠にかかったんばい」
 興奮を抑えきれない声で子供達が答える。

 薄れゆく島の思い出の中で、石和には妙に鮮明に記憶に残っていることが幾つかある。この木箱の猫はそのひとつだった。

 軍艦島の閉山が確定し、全ての島民が島を離れることになった時、島に残される野良猫たちを駆除する決定がなされた。それは野良猫たちの行く末を案じての決定だった。当時、島では野良犬を見ることはほとんどなかったが野良猫は沢山いた。日ごろ何を餌に生きていたのかは定かではなかったが、ほとんど土や緑がないコンクリートの建物が立ち並ぶこんな特殊な環境では、捕獲する獲物が果てることがないとは誰も思わなかったし、高い岸壁に囲まれていては海から獲物を得ることができないことも想像に難くなかった。

 釣り人からお零れの小魚をいただいたり、残飯を漁ったりということはしていたかも知れないが、そう考えると猫達は人間がいたからこそ生きていられた訳であり、島に残されてもやがては飢え死にするだけの運命だろうと考えたのだった。
 もし仮に生き残っても、今まで人間に寄り添うことで生きてきた猫たちを、無人となる島に置き去り、飢えさせ、寂しい思いをさせるのは余りにも哀れだということになり、可哀想ではあるが、いっそのこと駆除しようということだった。それが去りゆく人間の責任と判断した訳だ。

 捕まえた猫を役所に持って行くと幾らばかりかのお金がいただけるとあって、当時は捕獲作業に精を出している若者達が沢山いた。石和は、自分が飼っていたペットの猫が誤って捕獲されないか気が気ではなかったが、首輪が付いている猫は捕獲しないとの緩い取り決めを信じ、張り切る若者たち達の真似をして、兄達と一緒に罠を仕掛けたのだった。ひっくり返して底を上にした木箱の下側一辺を地面に立てた棒で支え、棒に付いた紐をタイミングよく引けば、餌に気を取られた獲物に木箱が覆いかぶさるという超が付くほどの古典的な罠だ。

 「兄ちゃん、かかるかな?」
 「わからんばい」

 ここは新六十五号棟アパート。石和の家族が住んでいた南棟四階の部屋のベランダである。ベランダの右眼下には市場の大きな三角屋根が見えている。市場の横、ベランダの正面に見える場所には小さな空き地があり、そこに仕掛けた罠から今いるベランダまで引っ張った長い紐を握りしめて、石和と兄、それから兄の友達の三人は息を潜めて罠を見つめていた。罠までの距離は優に二十メートルはあるので息を潜めなくても影響はないのだが、緊張感がそうさせていた。時間は夜の八時を過ぎていて日はとっくに落ちているが、アパートの各部屋から洩れる明かりと、街灯の仄かな明かりで仕掛けた罠はしっかり見えている。十一月の外気は冷たく、三人は寒さを我慢して猫が現れるのを待っていた。

 「来た」
 罠を仕掛けて小一時間、餌におびき寄せられて、茶色と白の大きなぶち猫がゆっくりと罠に近づいてきた。紐を握りしめた手に力が入る。二メートル・・・・・・一メートル、態勢を低く鼻先を地面に擦りつけるようにして餌に近づいてくる。五十センチ・・・・・・十センチ、ついに木箱の中に頭が入った。餌の匂いを嗅いでいる。
 「まだばい」
 「もうちょっと」
 「全部入れ」
 のそのそっと前足後ろ足が動き、ついに体の大部分が木箱の下に入った。
 「今や!」
 握りしめた紐を力いっぱい引いた。棒が飛び跳ね木箱が落ちる。
 ガタガタ、ガタガタ、木箱が動く。
 「入った?」
 「多分・・・・・・」
 子供にはもう遅い時間になっていた。狩りの成果は翌朝に確かめることにして、ひとまず解散となったが、石和はその夜、眠れない夜を過ごすことになった。

 (この子、俺だ)
 木箱から子供達の方に向き直り、石和は三人の顔をまじまじと眺めた。さっきまでいた世界、そう、ドローンと闘う未来世界は間違いなく早良がこの島に見る未来の世界だ。そして今は、文木の世界に違いないと石和は理解し始めていた。
 「この猫の駆除の話、文木さん、えらく気に入っていたからな・・・・・・」

 「なんね?」
 小学生の自分が問いかけてくる。
 「いや、何でもない」
(そう言えば似ているかな、文木さんには俺の子供の頃の写真は何度も見せたから)
 石和は改めて一番年下の子供を見つめた。
(で、こっちは兄ちゃんで、こっちは兄ちゃんの友達の山本君か、なぜか二人ともそっくりだ。写真も見せたことがないのに不思議だなと思いながらも、子供の頃の自分に出会えてニヤニヤしていると、「変なおじさんばい。もう、あっちに行って」と小さな自分に叱られた。石和がにやついていたのは、子供の頃の自分に会えたからだけではなく、これから始まることの成り行きが分かっていたからでもあった。

 くぐもった唸り声が、木箱の中から聞こえる。自分が置かれている状況に対する怒りに満ちた獣のそれだ。自分をこんな空間に閉じ込めた奴が近くにいることは外の騒がしい様子で分かっている。近づく足音が更に良くない状況を引き起こそうとしていることも想像がついているのだろう。囚われの身となった猫の恐怖と怒りは頂点に達している。
 「間違いなか。いるばい」
 「よし、始めるか」
 兄ちゃんと山本君は予め決めていた配置についた。地面に片膝を付いた山本君が大きな透明のビニール袋を地面に這わせるようにして置き、開いた口をピタリと木箱の一辺にくっつけて構える。兄ちゃんが、山本君とは反対側に位置取り、山本君側の木箱の淵を少しずつ斜めに持ち上げると、飛び出した猫が口を開いて待ち構えているビニール袋に飛び込むという段取りだ。小さな石和に役目はない。足手まといというよりも、動きが取り難いから見ていろといったことだった。
 
 「よかね?」
 「うん。よかよ」
 お兄ちゃんと、山本君が声を掛けて呼吸を合わせる。
 お兄ちゃんがゆっくりと、ビニール袋側の木箱を持ち上げる。
 「出た」
 鼻の頭が木箱の外に出てきた。脱出の機会をうかがっていたのだろう、素早い動きだ。更に木箱を持ち上げると、狭い隙間に鼻先をこじ入れ、自由を手に入れようと頭と前足を強引に木箱の外に押し出してきた。
 「まずか」
 山本君が声を上げる。
 もがいていた前足の爪に引っかかって、地面にピタリと這わせていたビニール袋がめくりあがり、囚われの猫にとっては袋の外に抜け出す絶妙な隙間が出来上がってしまっていた。それが分かっているのか、その隙間に鼻先を差し込み始めた。
 「押さえて、逃げるばい」
 山本君の悲鳴に反応し、お兄ちゃんが木箱を上から抑える。ここで子供の石和もお兄ちゃんに加勢すべく木箱を押さえにかかった。地面と木箱に頭を挟まれた猫が、苦し紛れに体を反転させ顎が上を向いた。口の下を擦り剥いたらしく血が滲んでいる。猫も必至だ。

 「これだ・・・・・・」
 子供達と猫の格闘を間近で見ていた大人の石和がつぶやいた。
 体をねじって仰向けになり、上を向いた白い顎に滲んだ赤い血、それを上から覗き込んだ映像が何故だか頭から離れないでいた。そして押さえつける木箱に跳ね返ってくる抵抗の感触。石和は四十年経っても、妙に記憶に残るこのシーンを再び味わうことになった。

 「ンゴ~」
 口を押さえつけられて鳴き声を出せない。喉の奥から絞り出す唸り声に完全に怯んでしまい、小さな石和は箱を押さえつけた腕の力を抜いてしまったが、それはお兄ちゃんも同じだったようだ。格好だけは変わっていないが、木箱を押さえる腕に力は全く入っていない。いや、石和には寧ろ、猫を逃がすために木箱を持ち上げているようにも感じられていた。ビニール袋を持っている手が猫に一番近い山本君も、猫の気迫に押され腕が無意味に暴れている有り様だ。

 次の瞬間だった。袋の脇をすり抜けるように、猫の全身が箱から飛び出した。一目散に駆け出した猫は、安全を確保したところで一度だけ立ち止まり、こちらを一瞬振り返った後で、丘の繁みへと姿を消し去った。
 「行ってしもうたね」
 「うん」
 「惜しかったね」
 「おう」
 まあ、仕方ないと残念がるお兄ちゃん達だが、実は内心ほっとしているのだろうと思っていた。もしかすると身体は震えていたかもしれない。少なくとも石和自身はそうだった。完全な気迫負け、小学生の自分達に成しえることではなかった。

(怖かったよな)
 平気な顔を装っているが、自分の事だから、実は泣きそうであることは知っている。未だに手に残る木箱から伝わる抵抗の感触と、脳裏から離れない傷口に滲む血の色と形。幼かった石和にはやはり衝撃的ではあったが、直後に起こった出来事もあって、それは強く記憶に刷り込まれることになる。
  
 「お前たち、何故俺たちの命を奪う、島を出ていくのなら勝手に出て行けばいいだろう。俺たちの先の事なんか気にしてくれなくて結構だ。俺たちはこの島で生きてやるさ。ずっとな。取り残されるのが可哀想だとか、人間が必要だなんて、お前たち人間の勝手な思い違いだよ」
 当時、十歳にも満たなかった自分が、この出来事から何故そんな思慮分別ができたのか不思議でもある。しかし、一瞬振り返った猫からの強いメッセ―ジを受けて人間のエゴを恥じたのは事実だった。
 「これは人間の傲りだ。猫たちに人間なんて必要ない。この島で生きていたのは人間だけじゃない。人間の勝手な悲しみを猫たちにぶつけてどうするんだ。そうだ、僕たちは島を捨てるんだ・・・・・・」
 小さな石和の心を、大人になった石和が改めて感じ取った。

 「プールに行こうか」
 山本君が声を出した。
 「うん、そうやね」
 気を取り直して、石和兄弟もそれに応えた。

 時期は晩秋である。プールと言っても水泳を楽しむのではないことを石和は分かっていた。
(よし、着いていくか)
 プールがあるのは島の南端だ。今いる六十五号棟は北端に位置する学校に近いから、端から端まで歩かなければいけない。とは言っても周囲が一キロメートル程の島だから、五百メートルもない距離ではあるのだが。

 ドローンに追われ、暗闇の中をユキの背中を追って駆け抜けた道を、今度は子供たちの後についてゆっくり移動する。瓦礫の山や塀を飛び越えたり、建物に身を隠すこともなく、メインストリートをのんびりと歩く。途中、多くの島民とすれ違い会釈を交わしたりもしたが、当時は引っ越しの手伝いに島の外からやって来る人も沢山いたので、見知らぬ顔を見ても特に関心もなしといった感じだった。
 三人の子供達は先程までの猫との格闘を忘れたかのように、大はしゃぎしながら歩いている。右へ行ったり、左へ行ったり、立ち止まったと思うと急に走り出したり、何とも自由気ままである。そんな姿を後ろから目で追いながら石和も首を左右に振りながら歩いている。気が付けば子供達との距離もやや離れてしまっていた。
(まあ、いいさ。迷子になることはない)
 そう思いながら、懐かしい島の風景を楽しんでいた。

 ユキと一緒に飛び込んだ地獄段が石和の目の前に見えている。
 「ユキと走ったあの時は、階段の途中で右に折れて十六号棟に入ったけど、急こう配の階段を登り切った先には端島神社がある。境内でよく遊んだもんだ」
 地獄段を通り過ぎ、屋上庭園があった十六号棟、十七号棟、十八号棟を左に見ながら、メインストリートを進むと右手に公民館が見えてきた。
 「公民館の前の空き地も遊び場だったな。ま、子供の自分達にとっては、島そのものが遊び場みたいなもんだったけど」
 公民館の隣が映画館、左手には派出所や寺院が見えている。どれも懐かしい風景だ。それから、ドローンに追われユキと最後に逃げ込んだ生まれ育った三十一号棟アパートや、日本最古の鉄筋コンクリートアパートの三十号棟も通り過ぎてプールに到着した。

 先に着いていた三人の子供達と合わせ、十人くらいの子供達がプールの中に入って遊んでいる。そこに水はない。あるのは沢山の粗大ごみだ。冷蔵庫、洗濯機、テレビなどの大型家電製品、タンスや机などの家具が、二十五メートルプールと隣の子供用の浅く小さなプールいっぱいに投げ込まれている。

 危ないから行っちゃ駄目だという親の言いつけも守らず、子供達はお宝の山の上ではしゃいでいる。
 「あったね?」
 「いや、もう取られてしもうとー」
 「あっちば探してみる」
 子供達の目的は様々だが、多くはテレビのスピーカーを探していた。お目当てはスピーカーに付いている強力な磁石だ。学校の授業で使うものと比べて、大きくて強力な磁石は、公園の砂場で砂鉄を集める能力を競う程度の遊び道具ではあったが、あの時は間違いなく子供達のお宝だった。

 テレビ、冷蔵庫、洗濯機の普及率の高さは、この島を語るうえで重要だ。一九五〇年代後半、『三種の神器』と言われたそれら家電の全国普及率が、それぞれ数パーセントから数十パーセントであったのに対し、島の各家庭での普及率は一〇〇パーセントだった。
 そんな豊かで文化的な生活を捨てて、島を出て行かなければいけなかった無念。石炭を採らなくなったことが、多くの島民の悲しみに繋がっていた。
 島に残る選択肢はない。
 豊かな生活を捨てるのだ。
 生まれ故郷を捨てるのだ。
 抗うことはできない。
 そう、それが決まりだ、決まりなんだ。

「あったばい。兄ちゃ~ん、あったば~い」
子供の自分のはしゃいだ大声を聞いて、石和はプールに背を向けて一人で歩き出した。

 来た道を引き返し、石和は桟橋の方へ向かった。間違えることはない、記憶はどんどん蘇っていた。

 最後にこの島を離れた場所。そこを見たかった。ぽつぽつと歩きながら、さっき通り過ぎた三十号棟アパートの横に口を開いたトンネルを抜けてドルフィン桟橋に出た。島から数メートル離れた人工の小島だ。よくここから長崎本土まで家族で遊びに出かけた。そして、離島を迎えた最後の時も・・・・・・。

 見ると、桟橋には船が横付けされていて、大勢の人が集まっている。どうやら島を離れる人とのお別れのセレモニーが行われているようだ。
 「当時は毎日のようにここでお別れをしていたはずだ。クラスでのお別れ会も頻繁に行われていた記憶がある。一人また一人、友達がいなくなる。とても仲の良かった友達を送る時、代表の挨拶の最中に涙が溢れ、最後は言葉が出なくなったことを覚えている。堪えようとしてもどうしようもなく、次から次に襲ってくる悲しみをどうやっても防ぐことができなかった」
 石和は当時の辛く苦しい気持ちを思い出していた。 

 「寂しいものだな」
 そうつぶやきながら、見送りをする人たちの傍に寄って、今正に出港しようとしている船に近づいて驚いた。
(お、俺じゃないか)
 船に乗っているのは、さっきまでプールで磁石集めに精を出していた自分だった。そして、お見送りをしている人達を見てまた驚いた。
(先生、みんな・・・・・・)

 「先生、お世話になりました」
 石和の母親が大きな声で、子供たちがお世話になった小学校の先生に挨拶をした。
 「頑張りなさい、君たちなら大丈夫よ」
 先生が子供達に声を掛ける。
 「さようなら~」
 「ばいばい、元気でね~」
 「さようなら~」
 友達や父親の職場の人、お世話になった多くの人々が最後の言葉を掛けている。

 「さようなら端島。大きくなったら、僕は絶対に、絶対に、また戻ってくるからね」
 子供の石和が、恩師や友達だけではなく、生まれ育った島にも、大声でサヨナラの声を掛けたのを石和は聞いた。

 ボーっという汽笛を合図に船が動き出した。送る側と送られる側の感情も最高潮に達し、一層大きな声が上がっている。双方の手には色鮮やかな紙テープが握られ、船が島を離れてもしばらく両者をつないでいた。
 船の別れは悲しい。いつまで経っても相手が視界に留まって、見えなくなるまでの時間が長い。
 泣かないと決めていたはずだが、堪え切れず、子供の石和が大泣きをしているのを見た。

 まさかの場面に遭遇し、石和はまた涙を流していた。

 「あんたはいつね」
 「えっ」
 隣にいた老人が訪ねてきた。桟橋で働いているひとだろう。何度も何度も同じ光景を見てきたはずだが、もらい泣きで目が潤んでいるようだ。
 「あんたはいつ島を離れるとね」

 「私は、今離れました」
 そして、また目の前が暗くなった・・・・・・。

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