鑑真号で上海へ
それは1980年代の後半、田舎に住む大学生だった私は「人生の洗濯のために」と誰かに語って旅にでることにした。語ったのではなく、毎年褌一丁で雪に飛び込む行事で有名だった男子学生寮のノートに書きつけたのだったか、なにしろ40年近く前の話。洗濯するほどの泥も埃もまだついていないということさえもわかっていなかった。若いということはそういうこと。
神戸の街中でバックパックを背負って歩いていた私は、かなりまわりから浮いていたと思う。若い女性たちが皆先のとがったパンプスを履いていて、それは黒ではなく薄くて明るい色だったことと、関係のない行列に囲まれてお客さんに自分が見えなくなると、怒鳴って行列を追い払おうとしていた露店の靴修理のおじいさんのこと。それが印象に残っている。神戸の人はこうやっていい靴を修理して履くんだなと田舎育ちの私は思った。田舎では靴を修理してなんていなかった。 修理するほどの靴を履いている人なんていなかったから。
神戸の街から上海行きの船鑑真号が出る港までは、歩いていこうとした。当時はネットなんていうものはなく、船に乗るだけに立ち寄った神戸の街のガイドブックなんて持っていなかった。 黙々とバックパックを背負って橋を歩いた。港までどれくらいかかるかもわからなかったけど、ただ黙々と。 そのとき横に大きなベンツが停まって、おじさんが声をかけてくれた。 どこに行くの? それは遠いよ、乗っていきなよ、と。 船乗り場についた。ほんとにおじさんが言うように遠かった。 おじさんは船乗り場に用事があったわけではなさそうで、わざわざ私を送ってくれただけだったよう。 船乗り場に売っていたロシアの毛皮の帽子を買ったおじさんは、それをかぶって私に見せに来て、照れくさそうに笑って去っていった。 最後は「ほな、気をつけてな」とか言ったのだろうか。
40年前の旅の始まりの日の思い出。船の汽笛よりも、去っていく神戸の夜景よりも、こんなことを覚えている。
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