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「学生を1カ所にたくさん集めて、びっくりしたい」という演劇を見た

大学の同期である岡田眞太郎くんの演劇を見た。

京都学生演劇祭2020出品作で、このご時世なので無観客配信公演としてツイキャスで観劇できる。

彼は地理学専修の同期なのだが、そもそも途中で休学して世界一周の旅に出ていたので、卒業は1学年あとになった。

ぼくは学部卒業後すぐに就職したが、彼は大学院に進学し、査読誌に論文を投稿したり、学振研究員にも選ばれたりと、血なまぐさい冷酷なアカデミアの世界で着実に結果を残しているようだった。

が、いまは演劇に取り組んでいる

そもそも彼は卒論でNPOの研究をしていた。取材の一環で、市民活動センターの指定管理者となって活動資金を捻出していた劇団との関係がだんだんと深くなり、いつのまにか彼自身が演劇活動をはじめていた。

彼が演劇活動を本格的にやるようになったのはぼくが卒業後のことだったので、これまで直接鑑賞したことはなかった。が、噂には聞いていた。聞く限りめちゃくちゃ先鋭的で、なにやら岡田くんのまわりで役者さんがずっとスクワットしているとか、そんなことをしているらしい。

意味が分からない。気になって仕方がなかったのだが、演劇の芸術性はその時間と空間に結びついた一回性によって支えられているので致し方ない。

そんなある日、Twitterで連絡を取っていたら、次作の原作を相談したいとのたまう岡田くん。

なんだか知らないが断る理由はないので、後日ビデオチャットであれこれとお話をした。

LINEには#集まるのが大事 藤嶋咲子さんのプロジェクトを紹介したらしい履歴が残っている。

「集まるのが大事」は2020年7月に大阪で開かれた合宿勉強会とやらで、Twitterで少しだけ流れを追っていた。チラシにはなんとも香ばしい語句が並ぶが、「集まる」ことへのイメージを岡田くんと共有したのをなんとなく思い出した。

もうひとつ紹介したアーティストの藤嶋咲子さんのプロジェクトは、安倍政権が検察庁法を強引に改正しようとしたことに対しTwitter上で抗議が広がった折りに、リツイートの数だけ国会議事堂を模したバーチャル空間上に人間を増やしていくというもの。

感染症対策のため、集まって抗議するという形態が難しくなったときに、仮想空間上で連帯を可視化した取り組みで、個人的に注目していた。最終的に2.9万RTがあつまり、技術的な課題も集合知によって解決されている様子は見ていてとても興味深いものであった。

正直、なんの話をしたか詳しいことはあまり覚えていない。ともかく、ぼくが好き勝手に思いついたことを話していたら、彼の中でなんとなくアイデアがまとまってきたらしい。

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夏が終わり秋めいてきた先日、岡田くんから久々に連絡があった。件の演劇がオンラインで上演されているからぜひ見てほしい、とのこと。

それはぜひ見たい。めちゃめちゃ興味がある。筋トレ世界一周の話だけ聞かされて、想像が追い付かない悔しさに消化不良がずっと続いているので、この目でひとつ岡田の演劇とやらを目に入れたい。

岡田くんの出演作は、劇団トム論の”The Students”という題目だと聞いた。演劇祭の演目のひとつで、Bブロック4作品のひとつとして上演されるらしい。動画なのでスキップもできるが、一応どんなもんかとその他の作品も鑑賞し、なるほど学生演劇とはこういうものか、ふむふむ、とディスプレイを見つめる。

そして4作品中3番目で”The Students”が始まった。

----以下ネタバレを含みます----

※が、文字での説明は不可能な類の何かで、たぶんネタバレしたうえで見ても実害はないと思うのですがどうでしょうか。念のため。

「学生を1カ所にたくさん集めて、びっくりしたい」

そんなめちゃめちゃふわっとした企画について、6人で話し合いをするという演劇らしい。舞台上に5人が座り、ビデオチャットを通じて参加している1人がスクリーンに投影されている。この6人がただ話し合いをしている様子を約40分間眺める。

今回はすでに3回目の話し合いだという。そのわりにまったく話は収束していかない。それもそのはず、「学生をたくさん集めてびっくりしたい」という抽象度の高い提案の核心には誰も踏み込まず、なぜ学生なのか、どこまでが学生か、京都は学生の街なのか、と各論をつつき合う。

そして東浩紀の「誤配」理論が唐突に飛び出す。

...哲学者がやるべきことは、愛の世界をカネの世界と区別し、愛の世界のなかに閉じこもることではなく、カネの話から愛の話が生まれ、愛の話からカネの話が生まれる、その相互陥入について思考をめぐらせ、そしてできればその相互陥入を使って愛の世界を実践的に拡大することなのではないか。ぼくはそのように考えながら、デリダを強引に読み解いて「誤配」の概念を抽出しました。そして博士論文を提出してから11年後にゲンロンを創業し、愛の世界(アカデミズム)を離れました。つまりは誤配とは、愛からカネが生まれ、カネから愛が生まれることなのです。その「まちがい」の可能性をつねに信じ続けることにおいてのみ、ひとは希望をもって生きていけるのだと思います。(東浩紀)
「誤配」について詳しく学びたい<ゲンロン友の声>

学生は「誤配」の時期で、「誤配」の魅力を最大限引き出すため、たくさんの学生が1カ所にあつまると、ぼくはびっくりすることができるんです!と発表する。

いきなり前提が飛びすぎやろ!!」とツッコミたい気持ちをよそに、話し合いの場では、「誤配」を引き起こしたい前提で会話は続いていく。ずっとそれらしい話し合いが続いていくのだが、どこか核心をはずし続ける。

何の話をしているんだろう…

ふと気づくと、動物園の象の話になっている。あれれ?

「学生を集めてびっくりしたい」とはどういうことか、という前提をみんなで受け入れてしまったらば、不思議なことに、彼らの話し合いに割って入って論点を整理する困難さに気づく。おかしい。大前提を共有していないだけで、各論に突っ込めない。

6人があれこれと一見もっともらしい話し合いを続け「ではそろそろ時間なので」ということで40分足らずの演劇はお開きとなった。

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「感動しました!」

「涙がでました!」

という感想には当然ならない。評価が高いのか低いのかもよくわからない。しかし、これを映像を見てからずっと問いが渦巻いている。いまいち整理はできないないが、一方でこれはきっと整理できなくてよいものだとも思う。以下、とりあえず3点ほど感想を残しておく。

まず、その場に同時に居合わせることでのみ共有される文脈について。演劇は元来、複製不可能な芸術で、時間と空間に結びついた一回性こそが魅力として認識されるものだった。もちろん映像化されることもあっただろうが、熱心なファンは同じ演目を何度も見て違いを楽しむというし、きっと演者も公演ごとに1回きりのポイントを感じつつ舞台に立っているのだと思う。

その点、今回は感染症対策のあおりを受けて収録された映像をオンラインで配信する立て付けである。どこまで演出なのかは定かではないが、発話はセリフ調ではなく、話し言葉によって語られていた。これが、限りなく「1回きり」っぽかった

そして、この感想を書くために映像をもう一度見直したのだが、ことごとく発話内容の要約が困難だった。この打合せの議事録担当だったら発狂していたと思う。ともかく、この話し合いはあの舞台上でのみ成立したものであり、時間的、空間的な文脈を共有していないことには割っていることができないのである。そこに、論理の不完全性と話し言葉の可能性を感じてしまう。

じつは最近、「おしゃべり」について考えている。先日まで東京芸大美術館で開催されていた「彼女たちは歌う」展について取り上げた津田大介さんが配信するポリタスTVで、担当キュレーターの荒木夏実さんが「おしゃべり」の可能性について語っていたのがとても印象的だった。

※現在動画は有料アーカイブになっている。

同展で公開されていた「Love Condition」は、美術家・俳優の遠藤麻衣さんと、アーティストの百瀬文さんによる作品で、2人で粘土を捏ねながら、「理想の性器」について語り合うという70分ほどの映像である。「マスキュリン(男性的)な言説の凝りをほぐし、軽やかなおしゃべりや転化」の様子が可視化されて見て取れるのだが、これは決して話の収拾がつかないわけではないのだ。

論理構成を突き詰めてカチッとした「男性的」なコミュニケーションが捨象してきた可能性の芽もきっとたくさんあったんだろうなと省みる。

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そしてもうひとつ、この「おしゃべり」の作品には正直とても衝撃を受けたのだが、このことをあとから友人に説明しようにもうまく要約できないのである。説明しようとした友人が外資系コンサル勤務の論点要約大好きマンだったのも災いした。発散系が包含する豊かな可能性の芽は、ロジカルシンキングとやらとは相性が悪いことは身をもって感じたところであった。

つづいて、研究と演劇についても考えた。彼はいま演劇に注力しているが、決して研究意欲が削がれたわけではないらしい。むしろ、演劇を通じて「研究」もしたという。

我々が学んだ人文地理学を含む人文科学、もとより科学においては、結論が一意に収束することを求められる。あるいは概観に徹したレビューもあるが、あんなこともあり得るし、こんなこともあるよね、といったふわっとした「芽」は摘み取らねばならない

他方、芸術作品として取り組む場合は、むしろ解釈の幅は歓迎されるもので、多様な読み取りかたを提供することそれ自体が社会に対して投げかけられる価値となる。

収束系と開放系の二兎を追うのはめちゃくちゃ難易度が高い。かつて卒論で自分がこころみたことなのでよくわかる。けれど、そのバランスはとても大切だと思う。論理的には正しくても感覚的には受け付けないことを押し通してもあまりいいことにはならないし、思いつくままに非合理的なことをしてもまたろくなことにはならない。

その意味で、危ういバランス感覚のひとつの極値を見た気がした。一見すると意味ありげな話し合いにも見えるが、はたから見ると発散を極めている、しかしその場にいる人たちのなかでは「おしゃべり」として成立している。他者が介在できそうでできない、そんな半公共的な親密圏を垣間見た。

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最後に、演劇とは何か、作品とは何か、という問いについて。

平たく言えば、「若者のつかみどころのない話し合いの様子の演劇」というじょうきょうなので、「これは演劇なのか」という問いは当然浮かんでくる。これはぼくもよくわからない。「革命」らしいし。

今回は舞台上での演劇を収録した映像を見たので、美術分野におけるワークショップを扱った映像作品とも対比された。ぼくは田中功起さんの作品が好きで、異なる立場の人々が話し合う過程を映像に切り取ることで、人と人とのコミュニケーションの関係性が可視化されることが興味深い。

ただ、岡田くんの演劇と田中功起さんの作品は、複数人の会話の映像であるというただそれだけを除いて異質だった。この演劇ではやはり最後まで前提の理解が共有できないという点が決定的に衝撃的だった。

田中功起さんの作品では、発話のなかからそれとなく発話者のバックグラウンドが読み取れるような編集になっていることが多い。映像が進むにつれて、それぞれの人柄が理解できるようになっている。

しかし岡田くんの作品においては、もはや解釈の方向性はほとんど規定されていない。ただしい理解などたぶんない。自由に誤読ができる。まさしく「誤配」が演出されている。ついでに岡田くん本人も出演しているが、岡田眞太郎役は別の演者が務めている。

これがおもしろいのかはよくわからないが、意図はじゅうぶんに理解できるし、作品として成立していたと思う。

ひとつだけ難癖をつけるとすれば、話し合いを集音マイクで拾っていたため、どうしてもところどころ聞き取りづらい箇所があった。同じ時間と空間を共有する1回きりの公演とは媒体が変わったことによる難しい点だったとは思うが、今後完成度が高まることを期待したい。もっとも、ビデオチャット経由の音声コミュニケーションのノイズ問題は各所で日々頻発しているので、これも見慣れた風景と言えばそれまでかもしれない。しかしもう一度繰り返すが、完成度はやはり大切。

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以上、まったくもってとりとめもない感想だが、ぜひ少しでも興味を持たれた方はご覧いただければ幸い。映像なので再生は1回きりではないが、配信期限は9月23日(水)までとなっている。

そして本日(といってもこの記事の公開から30分足らずだが、、)9月15日中に購入すると、投票権もあるとのことである。

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