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絡まり合い、自然の中に溶けていくこととは。

こないだのWeのがっこうは、アーティストの大小島真木さんとの対話を行う時間でした。

大切に扱いたい気付きをいただいた時間だったので、色褪せないうちに文字という形に残しておきたいと思います。

言語化を上手くできないが、話を聞いている中で自然に涙が出そうになったり、心がだんだんと躍るような感覚もあったし、温かい感情が湧き上がって満たされていくような時間でした。

心の中にある潜在意識レベルの部分に共鳴する話だったんだと思います。

この話を受けるにあたって最初に抱いていた問いがあります。

「自分は誰なのか。」

自然のなかで関わり合いを持ち自分は存在している。世界の原住民族の人々の中では何千年とその土地と交わり、接続し、知恵や恵みを得ながら、同時にお返しをするという慣習を持っている人々が多くいます。彼らは自分自身が誰なのか、自然との関わりの中で見出している。以前ウェビナーで、「原住民族の人々は現代化した西洋や先進国の人々のことを、”Little brother” (小さな弟)よ」と呼んでいるという話を聞きました。「自分自身を生み出した土地との関係性を失い、自分が誰なのかも忘れてしまった、欲望に惑わされた弟よ」と。この話を聞いた時から、「自分とは誰なのか」という問いを持ち続けていました。

大小島さんが話してくれたストーリーの中で色んな場面から自分を見つめ直すことができました。

「大地・森に食べられていく自分」「大地に見られている自分」

屋久島の森の中を歩いていた大小島さんが迷子になった時、何千年と時を超えて育ってきた樹々や苔、生き物たちの生命に囲まれて、見られているという感覚を抱いたそうです。もしその場所で見つからずに死ぬとしたら、自分は大地に食べられて森の媒介種たちによって森に戻っていく。私たちは他者である生命を食べることで、栄養を得て生きることができています。死ぬということは、自分が食べているように他者に食べられて、また次の命になっていくこと。

大小島さんがその経験をもとに作った作品においても、森の動物が死に、様々な媒介種たちによって食べられ、またその骨のもとから新しい命が育って森の一部になっていく。

インドネシアの原住民族のコミュニティは新生児が死んでしまった時に、木の幹に穴を掘ってそこに葬って木の皮で墓を閉じるそうです。死者になった時に、森の一部となって森とともに成長し、伸びていく。場所として伸び続け、また土に戻る。前のnoteで書いた鳥葬において鳥や空と繋がっていくことと同じように、森と接続していくということができる。

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大小島さんの作品:"Going inside the womb of the ground" 

http://www.dumonteil.com/artwork/going-inside-the-womb-of-the-ground-maki-ohkojima/ より。

「私たちは緑色の肺と青色の肺を持っている」

私たちは酸素を吸って肺でそれを変換して、呼吸をして生きている。その酸素はどこから来たのかと思いを馳せると私たちが吸っている酸素の半分は、地球上の森の樹々や植物たちが生み出したものです。同時にもう半分は海にある植物プランクトンたちが光合成をして作り出したもの。私たちは森の緑色の肺と、海の青色の肺を持っている。それが意味するのは私たちの身体は私たちだけのものではなく、とても大きな地球における生命が生み出し続けている酸素や他の物質を通して常に繋がっている。皮膚という境目だけではなく、さらに超えた見えない・わからない部分にも境目があるんじゃないか。自分の身体をそうして拡張していくことが可能なんじゃないかと語っていました。

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大小島さんの作品:私たちの海と森の肺 / Our lungs of the sea and forest.

http://www.ohkojima.com/top.htm から

「私たちは腐っている」

人間の体を生かしているものを、体の一部として拡張して考えると、辿り着くのは「土」であるという話がありました。人間を意味するHumanの語源が実は”Humus”という「腐ったもの・腐植物」であることは、私たち人間は腐ったものたちの塊である土から生まれた命を食べ、死ぬとまたそこに還っていく、腐る存在だということ。悪いものとして考えられがちな「腐る」というあり方から、新しい命が生まれ豊穣の象徴となる。

ダナハラウェイが「私たちはコンポストになろう」と言っているように、腐るというプロセスの中に自分自身をおいてみると身体は土にまで拡張されていく。

こうした話を聞いていく中で、「自分が誰なのか」という問いはどんどん分からなくなって生きました。自分は海や森や土や他の生命と絡まり合って、その大きな流れや存在の中で溶け込んでいる。皮膚の境界線はもはや意味を持たず、自分自身をどこで他から「分ける」ことができるのかも分からない。

しかしこの分からなさや混沌に対して、感じたのは不安ではなく安心でした。自分自身の境界線が溶けて、より大きな混沌に包まれている自分自身を認識することはより大きな安心を自分にもたらしました。自分は夜に部屋の電気を消して暗闇に佇むのが好きなんですが、それも自分の境界線が無くなって空間に溶け込んでいるという安心感を味わえるからだというのに近いと思います。

ただそうして自分の境界線を取っ払って、溶けている自分自身を認識することも大事だが、「溶ければ溶けるほど良いわけではない」というのも印象的でした。「開けたり、閉じたりすることが大事。」いくら境を取り払おうとしても、最終的に自分自身の身体という枠組みは残っている。自分自身が深く微生物や植物や海やより大きな存在に繋がっているという認識を持った上で、自分自身という身体に戻ってきて生きるということが大事なのではないかという指摘が、とても衝撃的でした。

私たちは様々な生命と絡まり合っているし、切り離しては生きていけない。ただ絡まり合っていると考え続けて生きることは難しいが、常に絡まっている状態は持続している。そう言った状況をある意味メタ的に捉えて、自分自身という単位を生きること。良い悪いという価値基準ではなく、その複雑で曖昧なところを意識することから問いを始められるのではないか。

そうした中で、自分よりもより大きな存在である自然に対して、私たちは自然をコントロールすることができないから、「祈る」のだという話を大小島さんがされていました。私たちは個では生きていくことができず、他の生き物に依存している。だからそう言った存在たちと「接続していく」ために、「祈る」ことができるのではないかと。「祈る」ということで連想したのは、思想家の山尾三省が著書で書いていた「太陽と水に祈ることは忘れないください」という言葉でした。祈るとは、特別な行為ではなく、感謝をする、相手のことを想う、大事だという感情を抱く、色んな方法がある。自分よりも大きな自然に対して、畏れと共に愛しさを抱くこと、それも祈りなのかと思います。

接続する、溶ける、解放する、閉じる、祈る。

大事にしたい言葉がまた増えました。

大小島真木さんは今東京で展覧会を開かれているので、もし関心がある人がいたらぜひ行ってみてほしいです。



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