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古武術とセオリーオブチェンジ

今日、親のつながりで古武術を教えられている林久仁則さんの教室にお邪魔してレッスンを受け、その後お弟子さんの井平さんからも体の使い方を教えてもらった。武術というものを生まれてからほとんど経験したことがなかった自分としては、古武術的な体の使い方がどんなものなんだろうかということを一切知らずに行ったが、予想もしていない面白い発見が多くあった。

結果学んだことは、「自分の力を抜き相手の力を受け入れることにより、相手と一体になり自由に動くことが出来る」ということだった。どうしても字面で書く分には陳腐な言葉にも聞こえてしまいそうなところを承知の上だが、こう表さずにはいられないような感覚だった。

例を挙げる。足を開いてしゃがんだような体勢(いわゆる💩座り)になり、そこからスクワットの要領で立ち上がる動作がある。その際に肩を押さえられたら簡単に立つことはできない。実際に力を入れて全力で立ち上がろうとしても大男に上から押さえられてしまったらビクともしないのが現実だ。
しかし力を力で跳ね返そうとするのではなく、「力を受け入れてください」と先生からは言われた。肩にかかる重さを受け入れ、緊張した体をその力に合わせてどんどん緩めていくと、体が収縮していく。完全に力が抜けきった状態になった時、不思議なことにスッと立ち上がることができたのだ。
これはぜひ実際に経験してほしい。字面では一切伝わらないと思う。
事実、185cmある僕とほぼ同じくらいの背でさらに筋力のある男性3人に上から押さえつけられても、結果として容易に立ち上がることができたのだ。

これは本当に衝撃だった。
力んで、相手の力を跳ね返そうとすると対立が起こり、その対立点が分かってしまうとそこに相手も力を注ぐことで拮抗して動かなくなる。先生からキーワードとして言われたのは「全体性」だった。あるポイントに力を入れるのではなく、力を抜き相手の力を身に受け止める。その上で、力を入れずに当たり前にその動作をすると、まるで相手と一緒になったように全く対立せずに自分の体が動くのだ。

武術における体の動きを言語化するといういささか不毛なことをしているようにも思えるが、体の使い方を学ぶ中で思ったのは、「これは人間関係や社会における変化と同じ構造ではないか」ということだった。

確かに対立点を明確化させると、相手もそこに対して力を注ぎ一向に動きが生まれないということはアクティビズムをやっている中で強く感じたことでもある。それよりも相手の力を受け入れ、とにかく力を抜いていくことで全く相手に対する力を発生させることなく、自然に自分が動かしたい方向に向かって動くことが出来るのではないか。

生態系にも同じようなメカニズムがないかと思索する。
近いかもしれないと思ったのは、生態系に変化や介入がもたらされた際には、生態系はそれに反抗せずに変化を受け入れ変わっていく。レジリエントな生態系とは、多様な生命が存在しており変化に対応できる生態系であるという。しなやかさとはまさに力が抜けており、かかる力を受け流し相手と自分が進みたい方向へ相手と一緒に変わっていく力ではないかと思う。

二項対立の先は平行線になってしまうが、対立軸を起こさずに包み込んで全体で変わっていくようなイメージを抱いた。

「身体性」という言葉をここ半年ほど耳にする機会がとても増えた。自分の体の実感値に根付いた言葉をどう生み出せるかということに対しての疑問がとても強かったが、今日ほんの少し経験したばかりにも関わらず全く違う力学の存在に衝撃を受けている。

しなやかに動く相手に対しては、自分が力をかけても意味がないのだ。力を抜いた際には、もはや相手の力がかかっていることは重要ではないように感じた。おそらく相手と力の対立点ではないポイントでつながり、相手も含めて動かしてしまうということが起きていたのではないだろうか。
ここまで抽象化してくると、社会変化のモデル・セオリーオブチェンジにも繋がるんじゃないかなと思えてくる。

まだ具体的にこれは!と結晶化できるわけではないけど、探求を深めていきたいと思う。



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