Isaoから見えたチベット仏教|インド・チベット仏教留学(3)
北インド・ダラムサラへの4ヶ月間の留学について振り返り記事をこの頃書いていますが、書き出してみると想像以上に書きたいこと・補足したいことが溢れてきて、自分は色々と学んでいたんだなと感じます。
インドにいた時には現実が日常になってしまって、特に何かを学んでいるような感覚にならなかったけど、振り返ることは大事なのだなと改めて思います。
今回の記事はチベット仏教について、僕の視点から学んだことについて書いていきたいと思います。
チベット仏教哲学を学ぶ
インドにいる間に受けていた授業の中でも、特にコンスタントに授業を受けたのはチベット語と仏教哲学の二つでした。
仏教哲学を教えてくれたGeshe-Tselek-la(Gesheが博士、laがチベット語でいう〜さんのこと)の授業では、基本的な仏教の宗派の違いからおさらいしました。インドが起源の仏教は、スリランカへと南下し東南アジアのタイなどへ広がった上座部仏教(Theravada)の伝統と、北インドからヒマラヤを超えてチベット・中国・韓国・日本へと広がった大乗仏教の流派に分かれます。この二つの流派の違いは、上座部仏教が個人の悟りへのプロセスを重要視するのに対して、大乗仏教は悟りを開いた後も他の生きとし生けるものたちの苦しみを取り除くことまでを目指すという点で違いがあるとのことでした。(もっと仏教に詳しい人からしたら不十分な説明かもしれないのですが、その場合は指摘いただければ🙇)
仏教哲学の授業を通じて驚いたのは、先生から教えてもらうことが当初は当たり前のことに聞こえすぎて何をどう学べば良いのかがわからなかったことです。特にセメスターを通じて特に大事なのは、”Emptiness”(空) “Interdependency”(相互依存関係) “Compassion”(思いやりの心)の3つだ!と繰り返し教わりました。
仏教哲学では、万物に本質というものはなく、全てのものは空であるといいます。しかしこの空(Emptiness)は、何も存在しない(Nothingness)のではなく、そのもの・その人単体だけで存在しているものはないということを意味します。他の生き物たちや人々、水や空気といった私たちを取り囲む全てのものに私たちは依存しながら存在しています。だからこそそれぞれの個の本質を辿っていくと、その個自体の中に他から切り離された何かは存在せず、結果として他のすべてと繋がりながら依存して存在していたことに気づく。だからこそ個は本質的に空っぽでありながら、他と繋がっている。全ての存在たちと私たちは存在をする上で依存関係を持っているからこそ、全てのものに対して思いやり(Compassion)を持つことが大事であるということでした。この思いやりはLoving Kindness(愛に溢れた優しさ)ともいうとのことでした。実際にダライ・ラマ法王の講話会などにも伺うと、法王自身も同じようなメッセージをお話しされていました。
とはいえ、最初にこの説明を聞いたときの感想は「ほう。そうなんだ。まあそりゃそうだよな」とただ納得するだけで、何か深い知恵に溢れた言葉を聞いたようには到底感じることができませんでした。エコロジーやケアのようなテーマを学んできた中で、全てのものが相互依存関係で繋がっていることは分かっていたし、だからこそ個の中に本質がない空であるという説明も頭では理解できました。しかし先に書いたような二項対立を乗り越えるための複雑な理論を期待していた自分からしたら、最終的に思いやり/コンパッションの話だと言われて、「いや、思いやりが大事なのは分かるけど、それ以上に何かないの?」と不満足になったことが正直な感覚でした。
もっと仏教や真言密教などについて勉強をしていけば、唯識や阿頼耶識といったレベルの話まで深ぼって聞くことができたのかもしれないという部分はありますが、入門的な授業の中で先生は本当に基本の話をするばかりでだんだんとフラストレーションが溜まっていくばかりでした。
とはいえ、毎週授業を受ける中で、何度も何度もこの「空」「相互依存」「思いやり」が大事だと繰り返し言われ続けると、だんだんとその言葉を内面化し始める瞬間もやってきました。頭では分かったような気がしているけど、果たして自分は本当に自分の身体を持ってこの教えを理解して実践できているんだろうか。大学から来ている他の生徒たちが不満を言っている様子に日々イライラしていた自分自身は、思いやりについても何もできてはいないじゃないかとハッとしました。こうして考えると、仏教の教えは頭でっかちに論理を考えるだけではなく、自分自身の中に内面化して実践として落としていくことがセットになっているのだと気づきました。これはアメリカの大学で学んでいるような頭で考えることがメインの学びとは異なり、人間としての自分自身を改善していくことが最終的なゴールとしてある全く異なる知識体系なのだと実感したことを覚えています。しかし、この気づきも数週間すると、「けど、やっぱり当たり前のこと言ってるよな」と思い、その後また深さに気づくということのサイクルでした。
人々はなぜ世界中からチベット仏教を学びにくるのか?
自分が上手く学びを実感することができずにフラストレーションを感じている中で、サラ・チベット大学に留学しに来ている他の国からの僧侶や留学生たちに話を聞いていると、なぜ世界中からチベット仏教を学びにくる人々がいるのかということもだんだんと見えてきました。
元々インドでゴータマシッダールダが悟りを開き始まった仏教はインドの中で学問としても体系化され、ナーランダー僧院をはじめとする大学機関にて教えられていました。しかしインドの中で他宗教の王朝が支配するようになる中で、インドに存在していた仏教の寺院や大学機関は弾圧され、重要な書物などを保管している大学の多くは破壊されてしまいました。
しかし、こういったインド仏教の経典や書物が焼失する前に、ソンツェン・ガンポ王のもとでサンスクリットの経典からチベット語への翻訳が行われていました。この時に翻訳された書物のことを総称として、「チベット大蔵経」と日本語では呼ぶそうです。この書物の中には、インドでは焼失してしまった後期仏教のサンスクリット仏典の多くが翻訳されています。
つまり、後期仏教の失われた経典を読むためには、チベット語を学ぶ以外には原典を読むことができない。だからこそ世界中から人々がチベット仏教を学びにくる事実にも納得できました。
もうひとつチベット仏教について学ぶ中で驚いたのは、チベット仏教が「暗記」にとてつもなく重きを置いていることでした。インドに行く前にチベット仏教について思っていたのは、密教の行や儀式、瞑想などを中心とした修行を行っているというイメージでした。チベット仏教にもニンマ派・カギュ派など密教・タントラに重きを置いた宗派もあるため一概にはいえないものの、僕が滞在していた大学のゲルク派は瞑想と同じくらい座学の勉強、特に暗記に重きを置いていました。
この伝統は8世紀のサムイェー寺の宗論まで遡ることができます。この宗教論争では、チベット仏教が瞑想を中心とした中国仏教の伝統を中心にするか、哲学や論理を重視したインド仏教を中心とするかが争われました。その結果、勝利したのはインド仏教派でした。
結果として、チベット仏教ではインド哲学をベースにした、とことん論理を詰めながら教えを理解していくというアプローチが重視されてきたといいます。これはチベット仏教の僧院などにいくとよく見かけるディベート・問答の様子にも現れています。
チベット仏教では、一対一、または複数対一で、片方が経典や主張に対する質問を投げかけ、その中から論理の矛盾を暴いていくという形の問答が行われます。ダライ・ラマ法王も含め全てのお坊さんたちが、この問答の試験をクリアしながら、ゲシェなどの位になることが認められるとのことでした。
そして、問答に加えて、チベット仏教の僧院での教育では、圧倒的に暗記が重要視されるということも驚きでした。生徒はまず、経典の意味を理解することなく音の羅列を飲み込むように暗記するといいます。そのプロセスでは、意味をまず理解しないで暗記することが重要であるといいます。暗記が完了したのちに初めて暗記した文章の評論を読み意味を読解していくというプロセスが行われます。
こうしてお坊さんたちは、その人たち自身が文字通り辞書のように経典を頭に完璧に暗記して、そらんじることができるようになっていきます。お坊さんたちにこの理由を聞くと、
「暗記をすることでどこにいっても自分の頭さえあれば色々な教えを思い出しながら、自分で学びを続けることができるだろう。本に頼ってばかりではその本がないと学びができないじゃないか!ハハハ」と笑っていました。
チベット仏教の言い伝えでも、重要な本を持って歩いていたお坊さんが強盗に遭ってしまい全て奪われてしまったが、次に同じところを通る時には全て暗記していたので、身一つで何も盗られることはなかったといいます。
実際に、暗記をすることによって、暗記をした時には大事さがわからなかった言葉たちが、ふとした時に自分の中に湧いてきて、気づきや悟りにつながるといいます。一緒に留学した大学の友達が、僧院教育に関するリサーチをしている中で言っていたのが、このような暗記をする教育は、本人が気づきや悟りを得やすいように、最も体系化されたシステムを暗記を通じてインストールする形に近いということです。暗記は一方ではとても非効率的に見えるけれども、最も気づきを得るために効率的に設計されたシステムをインストールすることで、結果として時間が経つ中でそのシステムが起動し始めるといいます。
自分たちに教えてくれたゲシェの博士号を取ったお坊さんたちがその学位を取るまでに20年間かかったように、このプロセスはとても長い時間をかけて暗記をしてその先に密教の教えなどがあった上で、到達すると気付いた時に、果たして自分はこのたった4ヶ月間の留学で何を学びとることができるのだろうかと思いました。もはやこの留学期間を通じて経験したことはほんの表層に過ぎず、「より深い気づきを得るための仏教の学びの道の入り口はここにあるので、いつでも戻っていらしてください」と言われているような感覚でした。
そういったことに気づいてから留学期間の目標が、仏教哲学だけにフォーカスしていた考えから、チベット人の今と、文化やコミュニティがどのように形成されているのかということを学びとることに変わりました。
都市性や踊り、犬についての考えがたまっているので、インド・チベットコミュニティで経験したことについてまた書きます。
読んでいただきありがとうございました。
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