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ばーちゃんが死んだ

 「ばーちゃんが入院した。今回は危ないかもしれない」母からLINEが来たのはGW中のことだった。その数日前にCFAは5/7からの運営再開を決めていた。代表たる自分が病院に行って新型コロナウイルスに感染すれば、運営再開は望めない。成長の黄金期にあるこどもたちにとって、仲間と過ごす時間は絶対に奪われてはならないと不退転の決意で決めた緊急事態宣言下での運営再開。だから見舞いに行かなかった。何度倒れて入院してもその度に復活してきたばーちゃんは、運営再開を見届けたかのように5/8の朝に旅立った。享年96歳。大正、昭和、平成、令和と4つの時代を生き抜いた。

 実は父方の祖母がどういう人なのか確信を持って話せることが少ない。本人は戦時中は満州にいて、満鉄(満州鉄道)で働いていたと言っていた。敗戦とともに死ぬ思いで九州に引き上げて、じーちゃんと結婚。病弱で休みがちなじーちゃんだったので、ばーちゃんが豆腐屋を起業してバリバリ働いていたらしい。

 ばーちゃんは「あんたの父さんは私が豆腐を売って東京の大学に行かせた」と何度か話してくれた。父は「こどもの頃からよく豆腐を売りに行かされた」とどこか誇らしげにぼやいていた。

 我が家は父方の祖父が役所の公務員。祖母が豆腐屋。母方の祖父が国鉄、祖母が靴屋と公務員と商売が入り混じっており、父も母も叔父も叔母も公務員。その他の親戚も焼肉屋をやっていたり医者、公務員など。いわゆるサラリーマンはほとんどいない家系。「公」と「商売」という二つの異なるものに囲まれて育った。

 話がそれたが、ばーちゃんは豆腐屋をやりながら車を買って休みの度にじーちゃんを助手席に乗せて九州中を旅したらしい。90歳を越えても「旅行に行きたいねえ」なんて話していた。冒険心あふれる女性だ。

 私の母は一人っ子で、父は兄弟がいた。父方には従兄弟もいるので、自然と長期休みなど他に孫のいない母方の祖父母の家に行くことが多かった。だから、成人するまでは進路や人生について父方のばーちゃんに話したことはほとんどなかった。

 だが、自分たちで「こどもたちのための学童保育」を始めて、想いだけが先行して借金だらけで給料も出ない日々が続いていた時、ふとばーちゃんに自分のやってることについて説明したことがある。ふむふむとうなづいた後、「きっと向いてるから、がんばりんしゃい」と言われた。間違いなく根拠はないのだろうけど、なんとなく励まされた。

 両祖父母の中でばーちゃんが最後に亡くなった。自分には祖父母がこの世にいなくなってしまった。兄弟揃って心配ばかりかけた孫だったので、本当はもっとしっかりと成功してじーちゃんたち、ばーちゃんたちを安心させてあげたかった。

 じーちゃん、ばーちゃんにはなにも求められなかったけどたくさん受け止めてもらった。根拠もなくたくさん褒めてもらったし、根拠もなく信じてくれた。嫌なことがたくさんあった時代もじーちゃん、ばーちゃんたちの求めなさのおかげで救われたこともあったのだと思う。

じーちゃんたちばーちゃんたちに、直接恩返しすることはできなかったけど。この仕事に向いていると言ってくれたばーちゃんのためにも、自分にできることを、一歩ずつ。

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