大人っぽいと言われることについて
「客観視できてて大人だよね、あなた」、「精神面での成熟度が実年齢以上」、「言動に落ち着きを感じる」等々よく言われてきた。まあ、一言でいえば、大人っぽいねという話だ。
長年、大人っぽいねと言われてきた。中学、高校での担任との年度初めの個人面談では大体「クラスどんなふうに見てる?」と聞かれてきた。「クラスどう?(個人的にどう思う、つらいことない?)」ではなく、「今のクラスはあなたから見てどう見える?」である。「まあ、クラス替えしたばっかりなので、まだ旧クラスで固まりますよね。旧クラスで固まるんじゃなくて、新しく一緒のクラスになった人と絡まなきゃみたいね感じは垣間見えますけれども、なんとなく話に行きにくい感じが漂っていますね。○○と××らへんが結構色々な人と関わっているので、数か月後には割とまとまりを見せるんじゃないでしょうかね。」と答えたり、なんだかんだ答えたりする。中学3年間、別々の担任からそれぞれ聞かれ、高校でも聞かれてきた。なんでこんなこと聞くのだろうかと思って、高校のときに担任に尋ねたことがある。「先生、なんか私、問題行動でもしているんですかね。帰りのホームルームの後に速攻で帰ったり、ロシアルーブルがどれだけ下落するかを友達と話したり、飛行機と季節風について語ったりすることはやめて、もうちょっとキャピキャピっとしたこと話してた方がいいですか」と。先生は首を横に振って、「いやぁ、あなたがね、クラスのことをよく見てるから、客観性をもって。精神的に落ち着いている人だから、新年度という精神的に不安定になる人が多い時期にこういう客観性を持ってもらえてるとありがたいんだよ」と。
多分私は、客観性とか、大人っぽいとか、精神的に落ち着いているとかそういう言葉に囚われの身になっている。
客観的だねとか、落ち着いているねとか大人っぽいねとかそういう言葉をかけてもらえることは嬉しかった。自分が他人よりも、人生を早く進められている感じがしていた。
でも、最近、本当に最近。高校を卒業した後あたりから、大人っぽいとか精神的に落ち着いているとかを言われることが若干苦痛になってきた。
基本、感情的なことは言わないし、スッと論が通ったことを話していると思う。自分の人種と属性が欧米社会でどう捉えられているのかを把握し、自分が置かれた状況を受け入れているはずだ。そこに不平不満を私は言わないし、例えば、「アジア人だからどうこう」、と話す友達(知り合いの方がいい?)には「ああ、そうなんだ。まあね、そんなもんだよね。わかってて来たしね、うちら。」などと返す。決して、「やっぱり、欧米人ってくそだよね。中国人って終わってるよね」などと言わない。だけれども、本音としては「ミンチにしてやりたいな」とか、「やっぱ、国民性ってだいじだよな」とか思う瞬間もある。でも、言わない。言えないのかもしれない。
「初期設定大人っぽい」が私にレッテル張りされた時点で、私は感情に支配された言動ができなくなる。大人っぽい人であり続けたい、子供っぽいと思われたくないと思っていることは事実なのである。でも、大人っぽい人であり続けるために、子供っぽいとされる感情的な話はできなくなるのである。
大人っぽい人でありたいという呪縛が苦痛となる今日この頃である。
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