コミュニティと自己嫌悪からの脱却。

今にして思えば、なぜ維持しようと画策していたのだろう。
そも、私が何もしなくとも続いていくのだ。
しかし異常にその綻びを案じ、繋がりを濃くしようとばかりしていた。自己犠牲の上で。

つまらない話と空間は退屈だ。
意義を信じ仕方無しに其処へ居ることの苦痛たるや。
それはリモート飲み会で顕著だ。
三次元的な空間の広がりが無いため、「あっちで別の話をしよう」など出来ない。
結果耐えるしかなく、不満を募らせた挙げ句タンブラーの中身をぶち撒ける破目になる。

コミュニティを抜けて煩わしさからも抜けた。
訳の分からないマウントを取られることも、それが不快になることもない。
人脈は全て宝と言うが、まず自分が大切なのだと、ずっと気づけずにいた。

他と多く関わる頃の私は、特別自分を嫌っていた。
受け入れられることばかり気にし、地雷を踏まぬよう言葉少なになった。
他に必要とされる自分こそ必要とし、需要が無いのにも尽くし、他人にも其れを求めることで、与えられない自分は必要でないというループ。

無理をしていたようだ。けれどそれが自然だった。
当時の私にとって尽くす事はやりたいことに他ならなかったし、疑いもしなかった。
長くそうやって生きてしまった。

その歪さに気づけて良かったと思う。
今も自分は嫌いだけど、まあまあ結構好き。

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