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フラットに描く『ジョゼと虎と魚たち』


昨年末から観に行こうと思っていた『ジョゼと虎と魚たち』
先日ようやく観に行くことができました。

アニメ製作の老舗・ボンズが送る青春恋愛映画でございます。

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恋愛が主軸にある本作ですが、「障害」に触れた作品である以上、その描写は重要な役割を担っているのです。


「障害」を扱った作品が陥りがちなのが、いわゆる「感動ポルノ」になってしまうことです。

障害を抱えている事実そのものや障害を抱えた状態で努力する姿を取り上げ、「お涙頂戴」の展開にしてしまう。

しかし、これでは視点が足りていないのです。
障害者側の視点──すなわち、障害を抱えた者が「どのように思い」「どのように行動するか」。これが欠落しているのです。

厳しいことを言いますが、そのような作品は「健常者のエゴ」にしか映らないのです。





では、『ジョゼと虎と魚たち』はどうだったのか。




本作では、大学生の鈴川恒夫と車椅子で生活している"ジョゼ"がキーパーソンになります。

恒夫がジョゼを「外の世界」へ連れ出す──この部分は外の世界を夢見ていたジョゼにとって「救い」になったのは言うまでもありませんが、この展開だけだと視点が一方的なものになってしまいます。


恒夫が「外の世界」へ再び歩み出せるように、今度はジョゼが恒夫の背中を押す──この部分があるからこそ、本作は感動ポルノになり得ないのです。


「内の世界」に閉じこもった恒夫を助け出す。
これは、自身にもその経験があるジョゼだからこそ、言葉や行動に説得力が生まれるのです。


つまり、ジョゼが恒夫に救われた結果、「どのように思い」「どのように行動するか」が本作には全て詰まっているのです。

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自分でお茶を入れないジョゼのことを「甘やかしすぎじゃないですか?」と指摘する恒夫。そんな恒夫に「足が不自由だから」と説明するジョゼの祖母。
その説明に対して「ペットボトルとかあるじゃないですか。」と返す恒夫の言葉が象徴するように、本作はあくまで「障害」をフラットに描くように意識していたと思うのです。

だからこそ、本作ではジョゼを「弱者」として描かないし、留学するという夢を抱く恒夫の「足枷」にもしない。
むしろジョゼは、恒夫が「外の世界」に出られるように救いの手を差し伸べる存在として描かれるのです。


ポジティブな形で感動を与えてくれる『ジョゼと虎と魚たち』は、同系統の作品で評価が高かった『聲の形(2016)』に勝るとも劣らない作品だと思った次第でございます。


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