【ことばの固着機能・2回目】(文学#25)

前回、【ことばの固着機能】という記事を書いた。

うまく言いたいことが、文章化できていないかんじがして、今もそのことが残っているのでも、もう一度、考えてみたいと思う。

「的を射た」ということばがある。たとえば、ある人を喩えるときに、みんなが「わかる!」と頷くような表現は、弓道やアーチェリーの、ダーツでもいいが、ど真ん中に、バスっと刺さったような、お見事な表現だろう。

それに対して、誰も頷かない、「そうかな~?」というような表現は「的外れ」なことばである。

言語化という作業は、もやもやと感じていたものを、表面化する作用がある。

的を射た表現は、共感を得て、おそらく、使い回される。つまりAさんのことを、誰かが「タコみたいな人」と表現して、「わかる!」と共感を得たら、そこにいた人は、また別のところで、その「タコみたい」という表現を使うだろう。そうすることで「Aさんはタコみたい」という共通認識が生まれて、固定していってしまうだろう。

ここには同調圧力も働いていて、誰かが「タコよりもイカっぽい」と言っても、すでに多数の人間が「タコ」という認識をもっていたら、その意見は広まらない。

また、心理学者のアッシュの実験に次のようなものがある。

ある架空の人物の性格を表すものを

A「知的、勤勉、衝動的、批判的、頑固、嫉妬部会」

B「嫉妬深い、頑固、批判的、衝動的、勤勉、知的」

という二つのリストで聞かせた場合、Aを聞いた方が、いい印象を持つという。リストは並び順が違うだけで、ものは一緒にも拘わらずである。

これは「タコ」ということばが付いてしまえば、イカの性質があっても、無視されたり矮小化されてしまう。

やがて、Aさんに「タコ」というあだ名がついたとする。するとその「タコ」はAさん自信にもフィードバックする。

嫌でなければ、自虐的に「誰がタコだ!」なんて、口を尖らせてギャグを言って、笑いをとるかもしれない。

しかし、嫌いであれば、怒るだろう。顔が赤くなって「ゆでダコ」と呼ばれるかもしれない。そう言われるかもしれないと思って、怒るのを我慢するかもしれない。
あるいは、アニメやマンガでそういう表現があったら自分のことを言われているように感じたり、誰かが「たこせん」をおみやげに買ってきたら嫌味かと感じるかもしれない。

こういうのはイジメの背景にある構造をうかがわせる。いじめている本人だけでなく「タコ」という認識に同調したものは、傍観者としての共犯性がある。ネットのデマ情報の拡散も似ている。

とにかく、ことばには、「もやもやしたものを明確にする作用」がある反面、一度、ラベリングされると、それは固定観念となって、自分にも他人にも作用していく。

「火のないところに煙はたたない」ということばもある。

Aさんが「タコ」っぽい要素を持っていたから、「タコ」と呼ばれてしまった。これは、容姿に関しては一理あるかもしれない。
体格や顔のつくりで、動物のあだ名がついてしまう人はたくさんいるだろう。あるいはいつも赤い服を着ていたかもしれない。

その良し悪しといった倫理観について、いまは論じないが、外見は客観的なので、共感を得やすいというのは確かだろう。

一方、性格や感情的な表現に関してはどうだろう。

あの人は「怒りっぽい」とか「よく笑う」といった、誰にでもわかる表現は、やはり共通認識を生みやすい。

しょっちゅう「大声を上げている」上司は、怒りっぽいと言われる。けれど、いつもボソボソしてる人を「怒りっぽい」と喩えても共感は得られないだろう。

ところが、誰にでも当てはめていけrるような表現もある。

「裏がありそう」といえば、誰にでも職場や学校では見せない顔があるだろう。いい意味にも、悪い意味にもある。

ただ、この表現を使われがちな人は「いつも明るい」とか「いつも暗い」とか、どちらかに振り切っている個性があって、それを見た人からすると「いつも明るいけど、落ち込むことはないんだろうか?」とか「いつも暗いけど、どこかでははしゃぐんだろうか?」といった連想が元になっている可能性も大きいだろう。

「いい人」という表現なども、意味のはばが広い。

「いい人だけど……」とくれば、だいたい悪い意味のことばが足されるだろう。「いい人だけど、私は好きじゃない」「いい人だけど、お金はもってない」「いい人だけど、つまらない」など。

「意外にいい人」などというと、わずかな親切をしたシーンを拡張する役割がある。まったく部下のことを気に掛けないようなワンマン上司が、一回だけ缶コーヒーをおごってくれたとか。悪そうに見える人が丁寧語を使っただけで、いい人に見えたり。ここにはギャップの作用も働いてる。

人間には、いい面も、悪い面もある。これは当たり前すぎることだ。
けれど物語では善悪を分けて、ストーリーの役割ごとに、その特徴を明確化して、ある種の「勧善懲悪」を描く。
悪い奴を、正義の主人公が成敗する。ストーリー展開がはっきりすればするほど、見ていてスッキリする。

これは、アクション映画のようなジャンルだけの話ではない。
たとえば、「人を殺した殺人犯が逮捕される」というミステリーや刑事ものでも、そうである。この展開を、当たり前に感じるかもしれないし、もしもラストで犯人がわからないとか、許せないような殺人犯が逃げ通したら、見ている方は不満が残るだろう。ここには「悪い奴はつかまるべきだ」という価値観が前提としてある。それはエンタメの前提でもある。

けれど、現実では未解決事件がたくさんある。
「悪い奴」にも悪くなるだけの理由がある。だからといって罪が許されるわけではないし、捕まって償うべきではあるが、ただ一辺倒に「悪者」に仕立て上げることが正義ではけっしてない。

けれど、法律や常識、マナーと言った一般常識は、ことばとしての固定観念となっている。それに反することを言う人間を断罪したりもする。

人間の多面性を描くのは、文学の役割だと思う。その人間観を理解できる人にはすばらしい作品も、一面的にしか物事をみれない人には、中途半端な正義、中途半端な悪人にみえて、面白さ、痛快さが足りないだろう。

面白いことだけが、物語の価値ではない。楽しいだけが正義であれば、奴隷同士に殺し合いをさせるコロセウムが肯定される。

ことばはとても、強いものだと思う。

じぶんにも他人にも、とても強く作用する。気付かないうちに、ことばに囚われて不幸になる人もいる。ことばをうまく扱えれば、開放もされていく

「ある人を憎い」と思ってしまっても、「意外にいいところ」を見つければ、見方が変わるかもしれない。

「ある人を愛している」と思い込んでしまっても、じつはそのせいで「不幸である状態」から動けなくなってしまう人もいる。

頭のいい人ほど、じぶんのことばに囚われてしまうのかもしれない。

考えない人は、他人の意見にすぐに流される。

どっちも、どっちかもしれない。

物語を紡ぐ者として、ことばの強さや危険さを忘れずに、真摯に向き合っていきたいとは思う。

僕の物語が、誰かの力になることを願いつつ。

緋片イルカ 2020/04/03