【物語の亡霊】(文学#18)
物語を書いている者に取り憑く亡霊がいる。
「この話、本当に面白いか?」
「読者が求めていると思うか?」
「こんなのは売れない。駄作だ。」
耳元でささやき、作者をハムレットのごとく狂わそうとする。
亡霊は死者の魂。過去からやってくる。
過去に流行った名作と呼ばれる物語や、自分が感動した物語から脱けだしてきて、作者の足を掴んで引き摺り込もうとする。
具体的な例で考えてみる。
たとえばミステリーである。
「殺人事件が起こる」→「刑事が捜査する」
ここまできたら「犯人が見つかる」のは物語の当然である。
現実では未解決の事件は山ほどあるが、物語は「探したけれど犯人は見つかりませんでした」では終わらない。
「犯人を見つけるが捕まえらない」という落し所はある。
けれど、犯人の手がかりをつかみもせず、いつのまにかを主人公が刑事の仕事すら辞めてしまうようなミステリーに読者は納得しない。編集者も認めないだろう。
「あえて見つからない」物語を書く人もいる。しかしテクニックが追いつかなければ、雑な物語にしかならない。書道家の崩した書体と、素人の下手な字は本質的にちがう。
若気の至りで「あえて」を書いた文学青年がいたとする。
稚拙でくだらない物語。
この物語を読んだ人――経験をつんだのか、ただ年だけとって感性が鈍ったのか知らないような輩に「若いな」と皮肉交じりに酷評されるだろう。
若気の至りだったとしても何十年と書きつづけていれば一つの境地を開くかもしれないが、腕がついて物語が固まってくると、そういうものは書かなくなっていく。
彼は亡霊を振り払ったことになるのか、それとも取り憑かれたのか?
面白い・売れる・読まれるといったことを「正」――あるいは「生」――とすれば、つまらない・読みにくい・伝わらない物語は「死」となる。
死んだ物語ばかりを書いていた人が、面白い物語を書いて認められるようになったとすれば亡霊を振り払ったことになる。とくに経済活動という観点でみれば、そうなるだろう。
ある別の観点からみれば、生死は容易に裏返る。
工場でつくられた統一規格のように綺麗に成型されたものではなく、ゴツゴツとして醜いものこそが人間の感情であり本質であるとするならば、売れるだけに書かれた物語は生きながら死んでいる。
ならば青年は亡霊に取り憑かれたことになる。
「お前の書きたい物語は何だ?」
と、魂へ問いかけることが生きている者を対岸から守るまじないである。
「犯人」が見つからなくてもいい。
それは「答えが見つからなくてもいい」ということ。
ありがちな結末をつけて、亡霊に魂を奪われてならない。
評価されなくとも、酷評されても足掻きながら書きつづければいい。
それは生きている作家にしかできないこと。
売れているだけのゾンビ作家よりはよっぽど人間らしい。
緋片イルカ 2020/01/02