いじめについてー加害者は忘れているー

そこに残した痕跡を忘れる
私は京都のちっぽけな喫茶店のオヤジで、いじめについて語るような資格などありませんが、神戸市立東須磨小学校の同僚教師いじめ問題をきっかけに私はいじめについて考えさせられました。私はいじめの加害者を告発し批判するために下の動画を上げているわけではありません。自分も加害者となり、他人を傷つけているかもしれないと思い、さらに忘れてならないことを自戒の意味も兼ねて動画として記録したということです。
忘れてはいけないこととは次のことです。
「悪いことの批判に躊躇してはいけないが、人を批判するとき、果たして自分はどうなのかと内省すること」
それを忘れてはいけないということです。
自分にも罪があるのではないかと疑いつつ注意深く自分で見張る必要があると思いました。
遠藤周作「沈黙」より
「罪は、普通考えられるように、盗んだり、嘘言(うそ)をついたりすることではなかった。罪とは人がもう一人の人間の人生の上を通過しながら、自分がそこに残した痕跡を忘れることだった。」
この言葉を思い出しました。

繰り返されている
2019年10月19日に記録した内容です。
「イジメ」についてです。当時話題になっていた神戸の公立小学校で起きた教師による同僚教師いじめについて私が思ったことです。ニュースやワイドショーでもこの話になれば、まさに言語道断教育者にあるまじきことであるとコメントを求められた人の誰もが言っています。YouTubeでもいろいろな人がとんでもないことだと非難しています。私もそう思います。たしかにひどい話です。まったく人の道に外れている。しかし、こういうことは
これまでにも何度も繰り返されてきた。さすがに、教師が教師をいじめるというのがこんなふうに明るみになったことはなかったかも知れないけれども、こうしたいじめがエスカレートして暴行となること自体はいろいろなとこでずっと繰り返されている。どれだけみんながひどいことだと、それこそ
極悪非道と非難してもなぜかなくならない。どうしてなくならないのか。
くりかえされるのか。考えてみたいと思います。

いじめをした人は少ない?
テレビなんかで、芸能人の人でも、
「私もいじめられた」
そういうふうに言っている人が居ます。多いとは言いませんが結構何人もいらっしゃいます。しかし、
「私はいじめをした」
という人は極端に少ない。中には居ます。ネットで検索したら、いじめをしていたと公言している芸能人、有名人の人も何人か居らっしゃいます。しかし極端に少ない。それは当然で、わざわざ自分で自分の評判を下げるようなことを言う人はあんまり居ないですね。それは当たり前の話だけれども、しかし、これが、匿名のアンケートをとってもいじめられた人よりいじめた人のほうが少ない。およそどのアンケートを見てもそういう結果。それは不思議だと思います。いじめをされた人は多いです。だいたい半数以上6割とかの人がいじめられたことがあると言っている。ところがイジメたことがあるっていうのは半数以下。これは単純におかしな話です。いじめというのは大体が誰か一人を何人かでいじめるわけで、二人とか三人とかでいじめたり、誰かボスみたいなやつの司令でそのへんの全員がいじめるとか、まあ、数的に加害者のほうが多いに決まっている。普通に考えたらいじめられた人の何倍かの人がいじめてるはずだろう。それなら、6割の人がいじめられたと言っているなら、その何倍か、ずっと多いほとんど10割の人間がいじめているはずである。つまりほぼ全員。それなのに何でいじめた事があると言っている人間のほうが少ないか。そんなはずない。数が合わない。まあ、少人数でターゲットをとっかえひっかえして大量の人をいじめたということもあるかもしれないが、それでもいじめられた人よりいじめた人のほうが多いはずだと思う。

エスカレート
その答は、つまりこういうこと。
いじめている人間は、はっきり言って、わかっていない
自分はいじめをしていると思っていない。自覚してない。あるいはいじめをしたことがあっても完全に忘れている。
「そんなことあったのか。」と
「たいしたことじゃないし、わすれた。」ということ。
やられた方はめちゃめちゃ嫌だったから一生覚えているけど、やった方はなんとも思ってない。すぐ忘れる。やった覚えもない。そういうことなんだと。実はこれは本質的なことで、こういうことだからいじめがなくならないと考えています。やっている方は。たいしたことないと思ってやっている。
あそんでんにゃと。
ふざけてんにゃと。
いじってんにゃと。
激辛カレー用意してギャーギャーいいながら、食べさせたりして、やっている方は遊び感覚。いじめているとは多分思っていない。悪いと思っていない。それでどんどんエスカレートして麻痺してきて、目に塗ったりめちゃくちゃやりだす。何も考えずに調子に乗ってふざけたりしているとエスカレートして歯止めが効かなくなって、とんでもない悪ふざけになる。それはやられている方からしたらたまったものではないし、いじめどころか強要というのか、暴行というのか、完全な犯罪行為になっている。ちょっとまえにもあった。宴会で煮えたぎった鍋に顔を突っ込むみたいなとんでもないことが起きたりもする。今回の事件の全容を解明して、そのうえで加害者があやまって、厳罰を受けないといけないと思います。しかし、それでもいじめはなくならないと思う。それは本質的な問題解決ではないから。一件落着には程遠い。

自分が加害者という可能性は十分ある
こういうとんでもない事件があったら、それだけが問題視されるけれども、それ以前の段階、普通のいじめというかつまり、犯罪以前の段階のいじめは
世の中にごまんとあるにちがいない。そういうのもいじめという点では本質的には全く同じだ。こういうとんでもない事件に発展する可能性もある。自分はふざけているつもりが、相手はめちゃめちゃ嫌がっている。相手はいじめと感じている。そして、もちろん私も含めてですけども大なり小なりそういうことをしてきた人、あるいはしている人はほとんど全員だろうということ。自分がわかってないだけ。わすれてるだけ。誰かに恨まれている可能性は十分ある。6割の人がいじめられたと言っている以上、いじめの加害者はもっと多くて当然。ほぼ全員と言ってもいいと思う。いやいや自分はいじめなんて金輪際したことないし、これからも絶対しないという人が居るかも知れない。そういう人が多いと思う。それはもしかしたら本当かもしれないが、実際ごく少数で稀な相当えらい人やと思う。普通はやっていることをわかってないだけ。だから、つまり、
「いじめの加害者という存在を自分のこととして捉えざるを得ない」
これは認めたくないことではあるけれども現実を考えれば認めざるを得ない。それが現実だし、そう考えなければ理屈に合わない。逆にそれを自覚しないことにはこれから先も簡単に加害者になってしまうと思う。いじめというのはなくなるものではないと思うけど、いじめ問題の本質を考えるときに、まずは自分がいじめしてたかもしれない、いやいや今現在いじめしてるかもしれない、将来いじめするかもしれない、そういうことを意識することが第1段階というか、それが前提だと、そう考えないことには何もはじまらないのではないかと思います。

加害者の共通項
結局何が言いたいかというと、少なくともこれから自分がいじめの加害者にならないようにするためには、自分はいじめなんてそんな卑劣なことは絶対しないと誓うとかそういうことではなくて、逆に自分がよくわからないうちに簡単にいじめをしてしまう危うい存在だと、いじめの加害者になることがいかに簡単であるかということ、自分がいじめをすることは十分ありえる話であるということ、それをよくわかっていないといけないし、厳しい監視の目で自分を見張っていかなければならないと思います。そのことには本当に注意していかなければならないと思います。今回の事件、加害教師を非難することは当然だしもちろん悪いことは悪いと言うべきです。しかし、忘れてならないのは自分も少なくともいじめという点で彼ら加害教師と共通項を持っているということ。人を小馬鹿にしたり、数的優位にあったらついつい調子にのってしまう。そういう共通項。胸に手を当ててみればそれは確かに自分も持っていると思う。だから、自分を見張らなければならない。私はそう考えています。
自戒の意味もこめてそんなことを思ったということです。すみません。ちっぽけな喫茶店の親父がわかったようなことを言ってしまいました。めったにこういう事は言うつもりないのですが、大事なことだけれどもついつい忘れがちなことなので、自分のための備忘録として記録しました。それにおつきあいいただきましてありがとうございました。またこれに懲りずに、こういったアダシゴトにもおつきあいいただければ嬉しいです。それではこのへんで。失礼いたします。

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