ほしいものを受け取っていいよ

ほしいものを受け取るって
どんな感覚だろうか?

どういうことだろうか?

うんうん、と
頭では意味はわかるようでいて、
実際、よくわかっていないのかもしれない。
からだとしては
どんな感覚なのか、
じったいとしては
よくわかっていないのかもしれない。

ほしいものを受け取っている
ということを、味わっている時間は
実はみじかかったりするのだろうか。

こころはとんとんとんと
あっというまに、うつりかわっていく。
ふらふらとして、そこにとどまってはいない。

HSPという性質を
わたしはまだあんまりわかっていない。
けれど、わたしはHSPやエンパスと呼ばれる
性質をもっているのだとわかる。
ただ、説明がうまくできない。
もっと知りたいと思う。

受け取りすぎてしまう性質は
HSPの側面かもしれない。
よく言われるのは、少し離れたところで誰かが怒られていると、自分が怒られているかのように感じるということ。恐れや怒りや責めや、憤り、やるせなさ、悲しみや、、、そんなものが混ざったそこに流れる不穏な波動、ビリビリ、もしくは、ぴりぴりとわずかに流れるものでも、感じ取ってしまいやすい。
以前、遠くでお客さんが別の人に怒鳴っているのを聞いて、びっくりして、こわくて、悲しくて、自分の手元がふるえてしまった。その一瞬、からだがわっっとショックを受けて、目の前のお客さんの声を聞き取れなかったり、そこに、集中できなくなってしまう。
自分のものではない波動が、自分のなかに触れて、共鳴しているような。
それは案外、無意識なもので、なかなか自分では気づきにくい。そもそも、そんなことがあることさえ、頭にないので、自分が?と驚きであり、同時に、そうだったのかと納得して安堵する。
それを知り、それに気づくと、自分のものではない、と手放すこともできるのだ。
うん、できるはず。まだ練習中だ。

しかも、HSPといっても色んな種類があるらしい。これは病気ではないから、その概念すら理解しにくい。体質、性質。そして、今やたぶん、けっこういるのだと思う。本が出たり、名前がついて、こうして耳に入ってくるくらいの一定数は存在している。だから、そう感じる人が変だとか、そんな特異な体質に生まれてしまった、とか、悪いこととか、ハンデとか、負荷とか、おかしいと言及されたりするようなことでも、ないのだ。
このそもそもの、どんなふうに存在しているかについて、わたしは自分でよく理解できてないなと思う。これも不思議だけど、からだはすっかりわかっている。その感覚の部分では、安堵し、納得し、受け入れている。頭が理解が追いつかない。
だから、知りたいなと思うし、それほどパーソナルな大事な、繊細な、感覚の部分なだけに、変に言葉だけ流行ってるからのっかったような文章とか、それをあけて読んでみたら、名前だけかりた、不快な波動が流れていたりすると、ダイレクトにショックを受けてしまうので、それをじぶんの内側を守りながら、ページをひらいていくひつようがある。
しかもHSPにもいろいろあって、わたしのこの感覚が共通でもないわけで、人それぞれの観点から言っているので、その人にとっての性質はそれが正解なわけで、その文章がわたしにはショックだからといって、間違っている、というわけでもないのが難しいところだ。
ただ、明らかに、HSPという言葉を、とってつけたような感じのするものとか、このぐらぐらの波動には付けないだろうなこの感覚を持つ人なら、とか、なんだか履き違えた感覚だなあと思うのは、そこの部分は共通してるような気がするのだけれど。
感覚でしかないし、
頭が追いつかないほど
素直で宇宙的な部分でもある。

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