かなしいときはていねいにされたい
なんだかとても疲れまして。
あたまも重たいし、からだもいたいし、
肩はバキバキにこっている。
そして無気力。
どこかへ出かけようという気力がうせてしまっている。
ついついきのうみたいになったらいやだなあと考えてしまう。
アタマが先行してしまっている。
なにがしたいかわからないから、
相談した。
相談したら、書き出しワークをするのがいいよって、それを発信するのがいいよってことになった。
それが、これである。
ああ、とても眠い。そして寒い。手が疲れている。。。手が疲れた。
アタマは思考停止しはじめた。
背中が曲がって、肩が内側に入っていて、首がさがっている。下を向くときは、口からゆったり息を吐いて、弛緩しよう。
股関節を緩めたり、後屈をすると、呼吸が流れやすくなるかもしれない。
肩が縮こまってあがってしまっているときって、
足元と上半身がわかれてしまっている気がする。アタマに気が上がってしまって、背骨のあたりが滞っている。坐骨やお腹の奥、足裏や太もも、土台から背骨を通って呼吸が通って、呼吸に合わせて腕をうごかすだけでも、いかに詰まっていたかに気づく。
おなかの奥をひきこんで、ももの付け根をのばすのもいいな。
すごくていねいにスカーサナをとってみた。
呼吸とからだの内側のつまっているところに集中してみる。どうにかしようとアタマで考えるのはやめて、からだの内側に、どう動かしたら、気持ちがいいかを聞きながら、動かしてみる。ほんとに少しずつ、ていねいに、背骨一本ずつ、肩、肩甲骨、数ミリずつ動かすように意識を向けて、呼吸を通していく。
からだ100パーセントの時間だよと伝えてみる。
思ったより、すっきりした。
からだが緩んでいる。ほっとしている。
意識をむけてもらえて、うれしいのかもしれない。
見てもらえて。聞いてもらえて、ほっとしたのかもしれない。無理に動かされることがない。
ていねいにされること。大事にされること。
「ていねいにされる」も最近のわたしのなかのキーワードだ。
この前、心を癒すために、ずっと気になっていた
ホテルのカフェに行ってみた。
かなしいとき、さみしいとき、
ていねいにされることがこんなにうれしく、安心するものだとは思わなかった。
ていねいにされて初めて、あ、わたしはそういうふうに大事にされたかったのだと気づく。
また、美しい装飾や、細部までこだわって作られていることを感じる空間も、こころにパワーをくれるんだなあと気づいた。
美しいものや、可愛いものや、きれいなもの
それに心がときめくことは、本当に力になるのだなと感じた。心がふやふやな状態のとき、たすけてくれるのってこういうものなんだな。そういう力があるんだなと改めて思った。作ることってこういう力を届けられるのかな。
そういえば、
🐈のセレモニーのとき、
もうからだだけの状態なのだけど、
部屋を移動する時、そのからだののった台を
とても丁寧に、少し揺れますよ、と声をかけながら動かしてもらえて、とても嬉しかった。
いろいろ迷ったけど、ここでよかったなあと思った。
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