2023の年明けはくるしかった
苦しくてつらい。
新年なのに、つらい。
将来がこわい。不安だ。
どうしたらいいかわからない。
今どこに立っているのかもわからない。
どこへ向かっているのか。
わたしの足はうごいているのか。
わたしは歩いているのか。
わたしは進んでいるのか。
ずっと止まったままだったらどうしよう。
もう間に合いません、諦めてくださいと言われたらどうしよう。
早く決めてくださいと急かされるのは嫌なのに。
急かさないでください。
どうして時間はこんなにも早く過ぎるんだろう。
わたしはどこかで間違えたんだろうか。
わたしは精一杯生きてきたつもりだった。
休みすぎたんだろうか。
もっとみんなは早く進んでいるのに
もっと早く立ち直れるものなのに
わたしは何を落としてきてしまったんだろう。
小さい頃からこうでしたか?
わたしはどこまで合っていましたか?
わたしはいつからこんなに合っているのかと、不安に怯えているのでしょうか。
子供の頃は、そんなにおびえていたとは思えないのに、いつから将来を不安に思って、いつまで不安に思えばいいんでしょうか。
いつまで土台は不安定なのでしょうか。
わたしが年末年始にやりたかった、予定していたことは、すべておわった。わたしはすべてやりきったようだ。12月の半ばごろから計画を立てて、それをぜんぶできたから、もえつきたのか。
それで急にさみしくなったんだろうか。
この先はなにをしたらいいのかわからなくなったのかもしれない。
急に現実に戻されて、向き合いなさい、楽しいことばっかりしてないでここをちゃんとやりなさい、ちゃんと生きなさいと言われているようで、とっても苦しい。
じゃあ、わたしはこれまで、ちゃんと生きていなかったってことなの?
この2週間楽しかったけど、
楽しいのは、怠けてるってことなの?
ちゃんとするってちゃんとしていなかったの?
こんなにいろいろやったけど、すべては、ただの趣味だから、なんにもなかったことになるの?
ただ、怠けて脱線していたの?
ただしいルートから外れていたの?
その地図から外れていたの?
どこからスタートなの?
わたしはにげていたの?
この2週間くらいの、わたしのままではこの先生きていけないの?
このわたしではだめなの?
どこかに、こうあるべき、こうしたら幸せになれるわたしがいて、それになるの?
それになれなかったら、どうなるの?
わたしはこれまでどれくらい正しいわたしの道を歩めていて、
どれくらいそれ以外の脱線したわたしを歩んできたの?
あの苦しいわたしが、正しいわたしなら、
そこへは戻れない。
つらすぎて、そこへは進めないよ。
そこへ行こうとすると、からだが苦しくて泣いてしまうのは、怠けてるからですか?
いつわたしはらくになれるの?
いつわたしはらくに生きられるの?
すべては綺麗事で、泥水吸わないと生きていけないの?
苦しい、辛い、やめたい、と思いながらじゃないと、生きていけないの?
もっと楽しいことに時間をつかうには
その苦しい苦しい道の先じゃないといけないの?
ヨガのTTは、こんなに苦しくなかった。
始める前は、うだうだ言った。時間もかかった。
始まったら、楽しかった。
でも、あれは学びですから。
お金払って学んでいるのだから、楽しいに決まっています。やりたいからやったのですから、楽しいに決まっています。
これからは、お金を稼ぐのですから。そんな生ぬるいものとは違うんですから。お金をいただくということは、それほど身を削らなければなりません。生半可な気持ちではバチが当たります。苦しくても、突き進まなければなりません。生きていくのですから。どんなことでもして、生きていくほうがかっこいいでしょう。もう辞めるなんて許されない。全て、あなたのせいです。あなたが悪い。あなたが悪くないと言えるのは、全くあなたに非がないときだけです。散々探しても、わたしに落ち度が全くないと言い切れるとき初めて、わたしは悪くないと言ってもいいです。少しでも非があれば、あなたが悪いです。
とにかくあなたが悪い。全て悪い。あなたは甘えすぎている。他人に頼り過ぎているのです。頭を使いましたか?使い切りましたか?自分で、やって、どうしてもできなかったら、人を頼ってもいいです。全力出してないのに、甘えるな、弱音を吐くな、あなたは何にもしていないのに、疲れたと言う。あなたは疲れていない。まだまだやれる。やれるのに、やり残すな。力を余すな。全力を、出し切れ。恥ずかしくない生き方をしろ。お金をたくさん稼いで、たくさん働いて、多少の苦味も我慢しなさい。繊細やHSPという言葉にあなたは甘えるな。乗り越えろ。弱いものになるな。おまえは強い。弱いフリをするな。倒れるほど一度全力を出してみろ。腹から声を出せ。やりきって倒れて死ぬならそれが綺麗じゃないか。
もう失うものはない。だれにも構うな。嫌われても前へ進め。家族への愛はお金にならない。どんなに、人へ注いでも、貯金は増えてなかっただろ。綺麗事は言うな。どんなに誰かのために頑張ったところで、満たされない。人に依存するな。相手の楽しみなど、相手を、笑顔にすることなど考えるな。自分の楽しみを考えろ。早く考えて進め。丁寧に小骨なんか、とるな。そんなものは捨て去ってすすめ。早く早く早くイメージして、引き寄せて、思い通りの世界を手に入れるんだ。早くやりたいことを見つけるんだ。あるはずの、これだ!っていう、全力を、そそげるものを見つけるんだよ!なんでいつも動きが遅いんだ!なんで走り出さないんだ!走り出したら、こんなふうに言わなくてすむのに!
今まで真面目に働いてきたけど、どうしてうまくいかないの?
頑張っても頑張っても頑張っても
お金はすりぬけていく。
しごとには出会えない。
どうして
どうしたら、誰にも恥ずかしくない生き方ができるの?
どうしたら、いつわたしの、しごとは安定するの?
いつ仕事ができるんだろう
仕事の楽しみを知りたかった
仕事の楽しみや面白さとかやりがいとかを知りたいんだよ
もうさ、ただお金を得るための苦痛な作業の繰り返しは飽きた。
これが生きることなら、長くは生きられないだろう。
楽しいことをやる時間と体力が少なすぎる。もっと、わたしは、ほっこりとしていたいのに。なんで仕事って、辛くて、苦しくて、表情を作って、上べの付き合いをして、それでちょこっとだけお金をもらう仕組みなんだろう。1週間のあんだけ長い時間を過ごすのに、相当メンタルが強くて、体力がないと続かないと思う。
わたしが弱いんだろうか?
仕事ってつらすぎる。
お金もらうためとはいえ、つらすぎる。
お金は生活に必要なのに、どうしてそのお金を得る手段をこんなに苦しく長い時間のかかるものにしたんだろう。
どうして、お金を得るってそんなに大変なことをしなくちゃいけないんだろう。
どうして、普通に暮らしていくだけなのに、辛い作業を1日8時間やっても足りないんだろう。
そんなに多くは求めてないはず。
そんなに広い家でもないのに、
固定費だって見直したのに
水準を下げて、譲歩すればするほど
入ってくるお金も小さくなっていくのは
どうしてなんだろう。
そしたらいつまでたっても、貯金はできないし、これ以上のぜいたくも許されないじゃない。
わたしが多くを求めるのはどうしてできないんだろう。
身を削り足りないのだろうか
どうして身を削らないとお金を得られないんだろう。
こんなに身を削ってきたのに、どうしてちょこっとしかもらえないんだろう。
もっともっと、みんな楽しい時間や、喜びの気持ちを犠牲にしてるんだろうか。
1番大事な時間を、捧げているんだろうか。
わたしが、わたしを大事にしすぎると、お金をもらえないんだろうか。
わたしはわたしの家族が1番大事で、家族と過ごす時間がとっても喜びで、楽しい。音楽を聴く時間や、それに浸る気持ちも好きだし、コンサートや舞台を見にいくのも好き。見に行ったら、どんなに素敵だったか、美しい空間であったか、わくわくしてこころが、ふわりと音楽とともに浮かんだり、聴きたかった曲を初めて聴けた喜びや、涙や、受け取ったこのきらきらしたものたちに浸る時間がとても好き。大事にしたい。クッキーを焼いたり、家族のイベントをもっと楽しめるように準備をするのも好き。食べたいものを考えたり、どうしたら楽しくなるか、どうしたら気持ちよく過ごせるか、その楽しい時間に集中できるように料理や、飾り付けや、仕掛けを考えるのが好き。当日がより楽しみになるから。その当日までの時間まで存分に楽しみたいのだ。家族を楽しませたい、喜ばせたい。のもあるけど、思いついた仕掛けとかを存分にやってみるのがわたしの喜びでもある。ものすごーくやりたいのに、単なる趣味だから、やらないといけないことじゃないからと押し込んで、後回しにして、間に合わなかったり、気持ちここにあらずの当日になってしまうことが1番悲しい。かなしい。さみしい。
まだまだある。大事なもの、大事にしてること、好きなこと、好きな時間、さまざまなこころのうごき、喜びの感情、美しさを感じるこころ。
そういうわたしの、大事なものを、犠牲にしたら、もっとお金がもらえるんだろうか。
わたしの中に昔からいる、厳しい指導者は、その好きなものや大事なものを捨てたら、捨てるほど頑張ったら、拍手してくれるだろうな。
何を目指しているのですか?
私の幸せじゃないの?
わたしを幸せにしない方法で、わたしは幸せになれるのでしょうか?
幸せってなんなのだろう。
幸せな瞬間と、そうではない瞬間があるのでしょうか?
幸せな時間をいかに伸ばせるかが人生なのでしょうか。
諦められたら大人なのでしょうか。
周りを安心させるしっかりした現実の自分を置きながら、それ以外の時間で夢を追い、欲を持たないものだけが、先へ進めるのでしょうか?
わたしは今どこに立っているんでしょうか。
風の時代というけど、風に乗れているのでしょうか。
どうしてわたしはいつもネガティブに考えてしまうんだろう。
辛くて苦しい方をえらんでなんでそうなのと嘆くのはなぜだろう。
もう一方の選択肢があるのに、そこはみないで、苦しい方を見て
もう一個の幸せな未来のほうをどうして信じないのか?ときかれて
わたしはおどろいた
苦しいほうを見て対策をしないといけないと思った
幸せな未来のほうの実現を思いもよらなかった
そんな素晴らしいことが起こるわけないとどこかで思っているんだろうか
それはたぶん、わたしにとって信頼100%だったものが、悲しい形で崩れたからだ。悲しい終わり方だった。それは幼少期のわたしの環境の中で何度もあったから、ショックが大きくて心に残ってしまったんだな。そうして、素晴らしく良いこと、それが続いていくことを信じられなくなってしまったのだろう。
🐈は初めてその経験を壊してくれた。本当の愛を教えてくれた。悲しい形で崩れてしまいそうになったところを、奇跡が救ってくれた。わたしはあのとき奇跡を信じていた。🐈は、いつも、奇跡は、信じていたら叶うことを教えてくれた。何回も何回も教えてくれた。最後の最後まで教えてくれて、からだを終えても、魂が、波動がそばにいるという奇跡をそのあともずっと教えてくれて。今この瞬間にも、そばにいてくれて。🐈はずっと愛で、ずっとそばにいてくれてる。わたしがずっと、悲しかったのか。わたしが、そばにいた人がいなくなってしまうことが、わたしがずっと悲しかったのか。みんながわたしの元から離れていってしまうことが寂しかった。わたしの大事にしていたものが手から離れていく。わたしの周りの環境が変わって、大事な人の心が変わって、離れていってしまうことが、わたしは悲しかったのか。わたしが決めて選んできたことだから、自覚がなかったけど、わたしが大事だと思ってきた人たちが、なんだか変わっていって、一緒にいることを頑張っている自分に気づいて、わたしがわたしのために、そこからはなれた。けど、その人たちとの違和感に気づいて、どんどん心がはなれていくのって、すごく寂しいことだよね。向こうがおかしい!っていうパターンもあったけど。どっちもわるくないんだけど、なんだか合わなくなるって、寂しい。あんなに一緒に笑ったけど、あの時のわたしはやっぱりどこか頑張っていたところがあった。今のわたしのほうが、ゆるゆるしてて居心地がいい。
周りが変わってみえるときは、自分が変わったときだ。わたしは変わって変わって、ここにいる。
いまのがいいってことは、歩いてきてるってことか。
今まで、わたしの家族の変化の中で、どうしようもなかった想いを、学校でぶつけてしまっていました。学校でわたしのそばにいてくれた人たち、コントロールできなくて傷つけてしまった人たち、本当にごめんなさい。あの時、家族に出せないから、学校であんな態度をとってしまっていたんだと今は思う。みんなが幸せでありますように。あのとき傷ついてしまったこと、わたしによって派生してしまった嫌な想いが、すべて浄化されますように。それを上回るほどの大きな癒しが広がっていきますように。
今まさにやってくる幸せをみんなが受け取れますように。
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