陸軍航空隊浜松基地の記録

画像1 伯父、吉田聡雄は1945(昭和二十)年4月23日、陸軍浜松航空隊113部隊で重爆飛龍の操縦士として訓練参加中に殉職した。
画像2 元々、陸軍には徴兵で主計幹部候補生として北京の経理学校などで学んだが、途中航空科に転科し、宇都宮飛行学校を経て昭和十九年に浜松基地に配属された。1944(昭和二十)年9月21日付の写真の裏に「部屋で写したらボケテ終ひました」とある。セルフタイマーによる自撮りか?
画像3 残された文章によると、戦友が次々と前線へ出て行くのに、自分は教官、研究班と基地勤務が続いていることに不満があったようだ。
画像4 この写真の裏には1944(昭和十九)年9月16日の日付があり「整備の手伝をやる時写しました」とある。紙焼きで見ている時は気づかなかったが、被写体は本人の様だ。かけているサングラスとよく似たものが遺品の中にあった。
画像5 向って左から三人目が聡雄。1944(昭和十九)9月21日付。殉職時には九人が死亡、二人がほぼ無傷で生存とある。これがクルーだとしたら全員が共に殉職したかもしれない。

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