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夜中になると思うこと

死にたくなるのは割とよくあることだ。
暗がりには誰もいないはずなのに、全ての部屋を確認しないと安心できないだとか。扉の向こうに誰かいるのではないかとか。閉めたはずの扉が開け放たれて誰かが入ってくるかも知れないとか。
そう言った不安が押し寄せてくるのが夜。もう美味しいもの食べてあったかいもの食べてとっとと寝た方がいい、それが分かっているのに不安と恐怖で胃の中のものが全部ひっくり返って出てくるくらいのストレスを感じるのだから眠れない。

わたしは眠ることを諦めている。
諦めているから寝ない、ではなく起きられないほど疲れることで眠るようにしている対処法を取っているが、これがなかなか気楽だ。

眠らなければそのうち衰弱死するし、その結果は決してわたしにとっては悪いことではない。でも人間はそのうち寝る、ならその眠気に抗う必要はないので眠気が来るまでは自由時間だと割り切ってしまった。生活リズムは普通の人よりも大分夜型ではあるが、それで困ったことはあまりない。仕事自体も昼過ぎから夕方に始まるようなものなので、それに合わせて寝起きしているのとさして変わらないと気付いてからは早く眠れないことに対する謎の焦燥感も消えた。

出来ないものは出来なくていいし、やれる時にやればいい。勿論それは環境が許せばの話ではあるが、家庭内で命の危険を常に感じていたことを思えば一人の時間をコントロールすることは他人の機嫌という運ゲーを挟まなくていい分楽ではないか。起きる時間さえ一定であれば何時に寝てもいいし、翌日が休みなら起きる必要もない。それくらいの緩さでいいのだと、わたしはひとりになってから初めて感じることが出来ている。

死にたくてもいいし、生きなくてもいい。
食べなくても、寝なくても別に構わない。
わたしは自由であるのだから、好きなようにやっていい。
結果として楽しく生きたり、結末として緩やかな自殺を試みていたりするのも自由なのだと。

そう考えられるようになって、ようやく呼吸が出来るようになった気がする。
わたしが生を謳歌することは今後も一切ないだろうが、「生きたくなかったな」と思いながら生活することを自分が受け入れられたというのがいまも生きている理由なのだと思う。

朝、目が覚める度に生きていることにがっかりするのはそれなりに宜しくないことらしいが、目が覚めないことを祈りながら眠る夜よりはずっと精神的に健康なはずだ。

そう言い聞かせないとすぐに絶望が顔を出す。
心に抱えた呪縛というのは、植え付けた本人には計り知れない傷になるのだというのを理解される日は来ないと諦めてはいる。諦めていたとして、それに傷つかない訳では無い。諦める度に古傷は痛むけれど、それ以上に無駄な対話へ費やす気力がない。

こうやってネガティブが渦を巻く夜は、過去の嫌な記憶がひょっこり顔を出す。それを整理しようかと思ってnoteを開いてみたけれど、何だか思考を整理して終わるだけで済みそうだ。

もうすぐ朝が来る、起きていることに絶望するのもまあ、人生の一部なのだろう。

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