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おおらかなのではなく諦めている

たま~~~にあるんですよね、いまもなんですけど。
昼夜関係なく、突然発狂しそうになること。

実際に暴れ狂って死のうとしたことも何度かあるんですが、正気だった時の自分が「多分こいつこうやって死ぬな」と先回りして自分の行動パターンを押さえていたことによりなんとか今もまだ生きています。

死にたいしチャンスさえあれば召されることを切実に願っていることは事実ですが、他人に迷惑はかけたくないのが本音。
家で死んだら事故物件になってしまうし、電車や車に飛び込んだら他人に迷惑が掛かります。それはちょっと困ってしまうなと。

「わたし」という個人をぶち壊した母親に賠償金請求がされるのは最高にざまあみろとは思うのですが、電車のダイヤを乱すことで何百万人もの予定を狂わすのも自己嫌悪で頭がおかしくなりそうになる。まあ両親に言わせてみればもうおかしいのですけれどね!毎日希死念慮を抱えたままえっちらおっちら生きています。
生きたくて生きてるわけではないし、出来れば死にたいのに死ぬことすら「他人の迷惑になりたくない」という自分の中の強迫観念が邪魔をする。自分の生死すらも他人の顔色を見てしまう、知らない人間への迷惑と自分の死にたさを常に天秤にかけているような感じで綱渡りをしている。

ただ、別にこれを誰かに理解されようとも思っていないし「わたしは不幸である」とも思っていない。
だから普段は口にすることはない。所詮誰も他人の痛みや苦しみなんてわかりやしない。推測することや想像することはできるかもしれないが、それは想像に過ぎないのだ。本人が現実で味わった苦しみや怒り、虚無、諦念に至るまでにどこまで人間性を損傷したか。これらは正しく他人に伝わることのないファクターだ。己の中で解決するしかない澱み、自分しか分からない現実を受け入れるしかない。

他人に期待してると、理解されないことに苦しむのだという。
そもそも期待なんて持てるような育ちをしていないので、そのことが分からない。そもそも何故理解されないといけないのか。理解されるために言葉を尽くして、内面を晒していいことがある、と言える育ちの人は素直にうらやましいと思う。いい環境で生まれ育った真っすぐな人なのだろう。きっと親御さんか、そうでなければ身近にいる人間が素晴らしかったのではないか。無論生得の気質もあるだろうが、それを守り維持できるだけの清浄な環境がなければ清廉という名前の花は咲かないのだ。

期待をしない諦めを逃げだと、弱さだと。そうやって斜に構えることをかっこいいと思っているのか?と。そう言われるのも面倒なので一度も口にしたことはない。よく「人なんて信じられない!」と言う子がいるが、正直他人を信頼しない、できない、する気がない人間ほどその事実を隠す傾向がある。信用していないことがばれた時の方が面倒なことになるからだし、したり顔の人間に「まだまだ若いね」などと言われて人を信じることには強さがいるだの成長したらわかるだのといらない高説を貰うのを避けたい意図もある。
ただ、ここで勘違いしないでほしいのは、わたしは他人を信じることを馬鹿にしてもいないし、妬ましいとも感じていない。
普通に「健全な環境で育てたことがうらやましい」と、混じりっけなし純度百パーセントの本心で思っている。きっとわたしもそういう環境で生きていたら素直に他人を信じられたのではないか、ただ悲しいかなこれはただの仮定であって事実ではない。いまここにいるわたしは他人への期待値はマイナスで、「何をされても怒らないおおらかな」ひとだ。

期待してなければ怒らなくて済むのだから簡単な話だろう。
少しでも良くしてもらえたらその分嬉しさは倍ドン、いいことしかない。

おおらかと称されると、なんだか他人に嘘を吐いているようで居心地が悪くなる。でも、それをわざわざ口にするほど幼くも中二病でもない。
他人の評価と自分が乖離する度に、気が狂いそうになる。(尤も既に両親曰く狂ってはいるのだが)

全てを諦めているから、どうでもよくて気にしない。
寛大なのではなく無関心。

でもこれを面と向かって誰かに明かすつもりもない、だからこうやって不眠症のお供として明け方にこんなところに書いている。

あーあ、今夜も死に損なったな。

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