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生きる意味とは?

「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」 

こころ/夏目漱石より

われわれは、“日常生活”などと簡単に口にするが、生きていることを自覚している人間は極めて少ない。また、自覚している人ですら、実際のところ多くの時間を漫然と眺めているにすぎない。日常生活とは、常日頃から生を活かすことではなかろうか。改めて考えてみると、とても恐れ多い。わたしたちは、生きるとは何かさえ曖昧なままだ。今回は、まず生きる意味について論じてみようと思う。

まず、ありきたりな答えとして「生きる意味などない」というものがある。たしかに、あくまで我々は地球という生態系システムにおける歯車の一つ一つでしかないわけで、エントロピーの増大中に生じた小さな秩序にすぎない。なんとなく説得力はあるが、ニヒルな人間がよく使う回答のような気もする。これは答えではなく、答える上での前提条件なのではなかろうか。その証拠として、個人の虚無性については、数々の宗教史から公然の事実になっている。だが、人生は虚無だからこそ、われわれ個々人が自由に意味づけすることができるし、その根底に流れる大いなる共通項を汲み取る意義があるのだ。
 
ここからは、今現在抱えている私見を述べようと思う。以下、述べる内容は随時更新される可能性があることを心に留めておいてほしい。
 
まず、禁止事項を伝える。自身に生きる意味を見出すことは、やめておいたほうがよい。どれだけ徳の高い人物でも、信じられないほどの人格者でも、中身を深く掘れば空が広がる。経験という名の固定観念や暴力的なエゴの先には、何も存在しない。どこまで行っても、神の観照に耐えうるほどの大義名分は見つけられないのだ。昨今の自己実現ブームは、個人のアイデンティティの喪失と人生への意味付けがごっちゃになって、何者かになることこそ人生の目標であり意義であると勘違いされて、生じている。諸君の人生は、いつかくる一瞬の煌めきのための忍耐期間ではない。何に成ろうと、偉大な”気づき”はやってこない。
 
ではなぜ、こんなにも自己実現がもてはやされているのか。私が思うに、社会の急激な変化に対して人類が培ってきた経験知が対応できないことが原因である。有史以来、個人のアイデンティティは生まれや地域によって強力に紐付けられてきた。生まれたときから職業や地位が固定されており、将来に対して選択の自由が無い代わりに、自我の安定性が保たれていたのだ。諸君が知っている通り、自我というのは我々の中に存在する絶対的なスピリッツでなく、他人との関わりなどの外的要因によって生じる一種の反応だ。つまり、旧社会における自己実現とは、確固たる自我を基に自身の社会的役割を全うする行為であり、社会貢献の源であった。しかしながら、現代社会ではこの前提が全て崩壊している。血や生まれのバックグラウンドから解放され、SNS上の大量の”他人“から影響を受け、インターネットから過度に情報が提供される。外的要因が変動し続けるこの環境下では、自我も常に変化し続ける。自我が定まらなければ、それに付随する社会的地位・役割も常に不安定なままになる。こうして、旧社会体制における自己実現は、現在では文字通りただの自己変容に成り下がっている。自己実現による社会への効力が曖昧になった現代社会で、社会的動物であるわれわれは路頭に迷っているという次第なのだ。
 
自己実現でないなら、生きるためには何をすればよいか、生きる意味とは結局何か。この問に答えるには、現代社会における道徳的指針を再定義しなければならない。われわれは自由を大衆化した一方で、その劇的な権利と伴う責任を持て余している。その権利を何のために使うか、責任を負うにふさわしい人生の目標とは何か。つまるところ、求めているのは人生における揺るがない指針、霊的な高次の使命、絶対的正義。これは時代とともに常に変わり続けてきた概念だが、現代におけるそれらは、自己実現ではなく“社会実現”であると考える。「どんな自分を実現するためか」ではなく「どんな社会を実現するためか」だ。自由を恐れるあまり隷属的生活を甘受する人々が、本当に求めているものは“生きがい”なのだ。閉塞感からの解放、価値観の変革、個性の放出。皆のなかで行き場を失い渦巻くエネルギーの爆発的指針を打ち出し、個々人をまとめあげ、錦の御旗を掲げることが真に望まれている。社会実現という夢を掲げ奔走することで、不安定な自己が“社会”という私的想像の宇宙においてひとつの神に昇化する。神格化された実現目標は、ひとびとの圧倒的“生きがい”を生み出すのだ。つまり、自由に害されうる人々がやりがいというアメに耽溺できるよう、社会をより良くするためのシステム作成者になる必要があるということだ。
 
人々は、常にわかりやすい自己実現を求める。これは、隷属的生活の中で他人からの評価(つまりはやりがい)を求めているからである。しかしながら、既に言語化され、ロードマップ化された自己実現像は、誰かが既に通過した轍でしかなく、それを模倣する社会的意義は小さい。真なる実現や成長は、まだ言語化されていない領域に挑む中で生じる自己の変革を、なんとかして言葉に変換することで結実するものだ。この領域に挑む方向性を打ち出し、社会にやりがいを生じさせることこそ、私が定義する“社会実現”であり、現代人が有するべき道徳的指針ではないか。人間が生きるために必要な理由を創り出すことを、生きる意味とすべきなのだ。これは全ての人間がなし得ることだ。未だ見ぬ世界を創る想像力も矢面に立つ精神力も実は対して必要な力ではない。ただ僅かな勇気。我々は、頼まれずとも夢想し、白昼夢を楽しむ。その夢を打ち出すことを恐れない微かな勇気さえあれば、望む社会は実現する。サラリーマンであっても、公務員であっても、専業主婦・主夫であっても、社会実現を目指すものはすべからく隷属的立場から一時的に解放される。その後の思想淘汰の中で、誰かの夢に従属することになる可能性はあるが。
 
この夢想戦争はすでに始まっている。諸君の一挙手一投足にいたるまで、主導権の奪取は行われている。昨日の夕食は何か。朝のルーティーンは。それは本当にあなた自身が決定したことか。細部に至るまで思想と夢を持つべし。社会実現を目指し、今日やるべきことはなにか。現在のところ我々の生きる意味は、社会実現に興じることなのだ。
 
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