さなのばくたんとさな歩きから見た聖地巡礼


大仰なタイトルですみません。

2021年3月7日に開催された、さなのばくたん。-ていねいなお誕生日会-。
自分はこの前後で計3回、ラ チッタデッラを訪れた。
一回目は3月5日。ばくたんカフェの初日予約のため。
二回目は3月7日。当日物販のため。
三回目は3月11日。ばくたんカフェ(二回目)のため。
この内、さな歩きの場所を巡る、いわゆる「聖地巡礼」は3月5日と11日にやってみた。
5日の方は準備をしておらず、記憶を頼りに大雑把に回って写真を撮るだけだった。
11日の方は事前準備として、さな歩きのスクショを用意して、しっかりと回ってみた。
いわゆる「聖地巡礼」をやったのは初めてだったが、とても楽しかった。
ラ チッタデッラ内を宝物を求めて探検している感じで、ちょっとだけ童心に戻れた。
聖地巡礼を通して色々感じたので、とりとめもなく書いてみようと思う。

聖地巡礼をやってみて感じたのは「変化」だった。
スクショとほぼ同じ画像と感じたのは、9割くらいだろうか。
全てが、常に同じ姿を取るとは限らない。
例えば、木々の葉の色がもう少し鮮やかな緑色だったなぁとか、映ってた看板が今日は出てないなぁとか、お店の装飾が違うなぁとか、置物の種類が変わっているなぁとか。
小さな変化から大きな変化まで、色々見つけた。
そんな「変化」が、自分にはとても魅力的に思えた。
さな歩きとばくたん。の「聖地」が、ラ チッタデッラという「日常」の場所であったことも一因なのでは、と感じている。
幕張メッセや武道館のような「ハレ」の場所ではなく、人々の日常に近い「ケ」の場所。
きっと、後者のほうが物事が移り変わるスピードは段違いに早い。
建物自体の外観は変わらないのだろうが、内装は変わるだろう。
それは人の代替わりだったり、季節の移り変わりだったりするだろう。
そして、その変化によってさな歩きの聖地は姿を変える。
時には無くなってしまうかもしれない。
アニメやドラマと全く同じ姿を求めるのも聖地巡礼の一つの形だと思う。
しかし、自分には聖地の「変化」が楽しみでならないのだ。

加えて、さな歩きという動画のコンセプトも一助になっている。
「現実」の場所を、バーチャル人類の名取さなが歩き回り、物に触れ、様々な表情を見せる。
バーチャル散歩、とでも表現すればいいのだろうか。
「ある」と「ない」が重なっているのだ。
「ありえたかもしれない」「ありえるかもしれない」
聖地をじっと見ていると、今にも名取さなが歩いてくるような気がする。
かつて、ここにいたような気がする。
いつか、ここにいるような気がする。
しかし、どれも幻。
現実でありながら、虚構でもある。
虚構であるからこそ、変わりゆく現実の中にその姿を見つけられるのではないだろうか。

聖地を訪れ、姿の変わった聖地を巡り、写真を撮る。
スクショだったり、過去の巡礼の写真とにらめっこしたりしながら、巡る。
その中で「あの場所だ」とピンと来る場所もあるし、「確証は無いが、きっとここだろう」とピンと来ない場所もある。
それでも構わず、写真を撮り、一瞬を切り取って思い出として保存する。
そして、それらを見比べるのだ。
聖地となった瞬間を、過去の姿を、現在の姿を、そして未来の姿を、全ての時間を一つにまとめて、見る。
時間の変化を感じてみる。
そこに座れる場所があれば、座ってただ見つめるのもいい。
もしかしたら、どこからともなく名取さなが現れてはしゃぐかもしれない。
BGMを変えてみるのもいい。
イヤホンを外してただの日常音に紛れてみたり、イヤホンを着けてさなのおうたを流してひたすら名取さなに浸ってみたり。関連の深さならエッビーナースデイもいい。
そんなことを繰り返しながら、ゆっくりと一箇所ずつ巡っていく。
日が暮れた聖地を、もう一度巡ってみる。
世間から離れて、穏やかに、長い時間をかけて、自分だけの聖地を"作り"ながら歩く。
自分にとっての「聖地巡礼」とは、そんな行為のように思う。

さなのばくたん。は終わったが、ラ チッタデッラにはまだ名取さなの余韻が残っている。
さなコレPOPだったり、ばくたんカフェだったり。
自分は少なくともあと一回はばくたんカフェを訪れる気でいるから、その時も改めて聖地巡礼をしようと思っている。
しかし、自分が楽しみにしているのは、それより後だ。

3月が終われば、さなのばくたんの余韻はすっかり消え、まるで何もなかったかのように日常の姿に戻る。
自分は、そんな「名取さなの影が無くなった聖地」が楽しみでならない。
4月になったら、また訪れてみたいと思う。
その時は、ELOISE's Cafe様でご飯を食べたい。
名取さなが消えて通常営業に戻った店内で、当時を思い出しながら、同じ席に座って、別のメニューを食べるのだ。
「今」を楽しみ、「昔」を楽しみ、「変化」を楽しむ。
名取さながいない街で、名取さなを楽しむ。
なんて贅沢なのだろう。
チネチッタ様も巡ってみたいが、シネマと自分の見たい映画が偶然重なることは難しいだろうから、巡れないかもしれない。
完全一致は難しくとも、見たい映画があったら入ってみようか。

一ヶ月後は、聖地はどんな姿を見せてくれるだろうか。
四月。新たな出会いの季節。濃密な春の中で、どう変わるだろうか。
三ヶ月後は、聖地はどんな姿を見せてくれるだろうか。
六月にもなれば初夏だ。季節に応じた姿になったりするのだろうか。
六ヶ月後は、聖地はどんな姿を見せてくれるだろうか。
九月は、近年ならまだ夏の匂いが濃い季節だが、秋の入口だ。
秋に応じた姿になったりするのだろうか。
少し気の早いハロウィンに向けた姿になっていたりするだろうか。
一年後は、聖地はどんな姿を見せてくれるだろうか。
予想もできない。
無いとは思うが、もしかしたらさなのばくたん。2022が開催されてたりするのだろうか。
楽しみだ。
定期的に訪れようと思う。

自分に、こんなに楽しく贅沢な「聖地巡礼」を教えてくれた名取さなとさな歩きにはでっかい感謝を申し上げたい。
今も、変わりゆく聖地の姿を想像してワクワクが止まらない。
いつの間にか過ぎゆく日々の中に、楽しみがある。
まだ見ぬ未来が、とても楽しみだ。
たとえいつか、全てが消えてしまってもそれでも聖地巡礼は続く。
変わってしまった風景の中に、かつての風景を見る。

上手くまとめられたとは思えないが、上手くまとめる必要もないか。
長々と書いている間に気付いたが、自分の心は、いつの間にか名取さなに囚われていたようだ。
どうにも、離れられそうにない。






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