#さな歩き は恐ろしいコンテンツだ

タイトルの通り。
ばくたんカフェを訪問し、その時に #さな歩き の恐ろしさに気付いた。

ばくたんカフェの帰り道、ふと思い立ち
「ベンチで休憩していこう」
と考えた。

ということで、チネチッタ通り沿いのベンチ、案内板の近くのベンチに座って風景を眺めてみた。
風景は様々な要因で印象が変わる。
立っている時と座っている時では視線の高さが違い、それだけでも見えるものと印象が結構違う。
最初はそんな風景を楽しんでいたのだが、時が経つにつれて、違うものが見え始めた。

雑踏の中に、ふと名取さなが紛れているような気がした。
向こうから歩いてくる人の中に、名取さなが混じって歩いてくるような気がした。
もちろん、そんなことはなく、ただの幻覚だ。
しかし、自分には本当に「そこにいる」ような気がしていた。
常には見えないし、はっきりとは見えない。
ふと気を抜いた時に、雑踏に姿が見えて、注目・凝視するまでには消えてしまう。
視界の端を、通り過ぎていった気がする。
振り向けば、ほんの少しだけ後ろ姿が見えた気がする。
明確な形をもたないまぼろし。
そんな感じだった。

それからは、様々な場所に名取さながいるような気がした。
今にも、羽の壁画の前に走ってきてポーズを取るのではないか、案内板の前に歩いてくるのではないか、壁の影から顔を覗かせるのではないか、と。
実際にはいない。しかし、名取さなはそこに”いた”。
自分が座っていたベンチからは、ビバーチェ棟が見える。
名取が手すりによりかかり、案内図を見ていたところ。
そこを、外から見ることができる。
名取の姿がガラスの向こうに見えた気がした。

自分がそのように名取さなを幻視したのは、 #さな歩き というコンテンツの表現にあるのだと思う。
#さな歩き は、日常に溶け込んでいる。
実写に重ねているからだろうか。
「過去にあったかもしれない」「今あるかもしれない」「未来にあるかもしれない」を感じる。
特別な映像ではない。
特別なシチュエーションではない。
普通に人が歩き、普通に生活している中を、普通に名取が散策している。
それが、いいのだ。
名取が制服なのも良い。
王衣装とかナース衣装も悪くはないが、どうしてもコスプレ感が強い。「日常」から「特別」に寄ってしまう気がする。

それと、 #さな歩き は、「動画」でありながら一続きでないのがいい。
様々なシーンが、少しずつ切り抜かれて集められている。
全てが裏では繋がっているが、表ではそれぞれが独立している。
名取さなが、どこを歩いて、どこを巡って、どこに興味を示したか。は分かるが、「どのように歩き回ったのか」という足跡は分からない。
例えば、ビバーチェ棟の踊り場で案内図を見上げているシーン。
名取は、あそこまでどのように行ったのだろうか?
階段を登ったのか、それとも下ったのか。
ビバーチェ棟の3階を歩くシーンがあるから、下ったのだろうか?
それとも、ビバーチェ棟の1階でかくれんぼするシーンがあるから、登ったのだろうか?
一つのシーンにも様々な可能性がある。
そんな想像の余地を残してくれているのが、とても嬉しい。
それを考えながら、 #さな歩き に映っていない名取さなの足跡を思い、幻視しながら歩き回れるのだ。

#さな歩き は、日常の中でその真価を発揮するコンテンツだと思っている。
人の少ない中で、静かに聖地巡礼するのも良い。
しかし、 #さな歩き の聖地巡礼は、ぜひある程度人通りの中でやるのをオススメしたい。ご時世柄難しいが……。
何の特別ではない日々の中で、日常を過ごす人々の中で、名取さなを幻視しながら、名取さなと一緒にLA CITTADELLAを歩く。
雑踏の中、視界の端、建物の影、通路の奥、すれ違った人々の隣、階段の踊り場、渡りの通路など、様々な場所を見て、探しながら。
椅子があったら座って、ただ風景と雑踏を見つめて、暇をしてみる。
気になるものがあったら、ちょっと近づいて見つめて、遠くから見てみる。
一つの風景を、様々な角度から、様々な見方で観察してみる。

#さな歩き は、とても楽しいながらも、同時に日常を侵食する恐ろしいコンテンツだ。
その時だけではなく、時が過ぎて、いつかの時に改めて巡ればまた違う姿が見える。
#さな歩き は、名取さなは、時を越えて〝そこ〟にあるし、いるような気がする。
VTuberという存在も、そう思わせる一因なのだろうか?
いつまでも生きて、LA CITTADELLAに遍在する #さな歩き というコンテンツ。

いつまでも、楽しんでいたい。

いつまでも、忘れずに想っていたい。

たまに足を運び、名取さなに、 #さな歩き に、かつての自分に、会いに行こう。

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