楽しかった記憶――文劇4によせて

舞台の上には何があるのでしょうか。その袖の奥には何があるのでしょうか。私達が見ている景色は、誰が、どう、作り上げてくれているのでしょうか。そんな事を考えます。

二月三日、文豪とアルケミストの舞台の第四弾、捻クレ者ノ独唱は無事に幕を開けました。その公演の、誰よりも近い場所に私はいました。二列目は、今この情勢で、最前と呼ばれる列になります。そこで、すぐそこで、私は舞台を観劇しました。あの規模の劇場の、一番前、なんて、初めてで、どう座っていればいいのかすらわかりませんでした。だから、少し集中はできていませんでした。目の前に倒れた人のつむじを見たり、靴のヒールは何色だとか、着物の下に履いているものの色だとか、そういうものばかりを憶えています。だけどああ楽しい、舞台を観るのは楽しい時間なんだ、そういう事を思い出した事も、はっきりと憶えています。

妹にチケットを譲ったので、妹も初日の舞台を観ていました。殆ど文豪とアルケミストを知らない妹は、すごかった、すごかった、と楽しそうに飛び跳ねて劇場を出て来てくれました。それを見て、私も飛び跳ねたい気持ちでした。そうだよね、楽しかったね。こういう場所なんだねと、文劇3から文豪とアルケミストに入った私は、ようやく全身でここは楽しい所だと喜ぶ事が出来ました。


舞台は、ずっと、私に素敵なものを教えてくれる所でした。大好きな俳優さんがいて、その人は色々な舞台に出る方なので、所謂2.5次元のものも、小劇場でやるようなもの、ミュージカル等にも縁を持たせてくれました。そんな舞台に、全く行かない時期がありました。チケットはありました。全部、なくなりました。舞台を上演する事も、舞台に行く事も、難しい世になりました。

あの頃に、私は文劇3を観て、演劇をようやく見れたと思って、それからちらほらとまたチケットを取れて、劇場に向かう事が出来て、という事も出来始めました。

二月七日の夜でした。文劇4は、二日間分の公演の中止を発表しました。

私にとっての舞台は、趣味で、言ってしまえば娯楽です。だからこそ、楽しいと思えた文劇4にまた行きたいと思っていました。私が観劇をする予定だった日も、中止になりました。だから、なのか、とても純粋に疑問に思いました。舞台の上には何があるのでしょうか。その袖の奥には、何があるのでしょうか。私達が見ている景色は、誰が、どう、作り上げてくれているのでしょうか。映画などでエンドロールを見ている時、いつも私はこんなにたくさんの人が関わっているのかと驚きます。その場は、いったいどんな所なのでしょうか。全員が一堂に会する訳では無い事はわかります、だけれど、きっと、たくさんの人の仕事を見て、自分の仕事をする人達が、そこにはいるのです。何を求めているのでしょうか。仕事なのだから、お金は勿論ですが、それだけでは無い人達ばかり、なのでしょうか。沢山の誰かと一緒に何かを作り上げる、そういう経験がないので、私にはわかりません。あの光景を得るために、私達に見せるために、いったいどれだけの人達が、どれだけの力を尽くしてくれているのでしょうか。どれだけの人の日々の先に、私が見た二時間はあったのでしょうか。


二月九から十日にかけての休みを取った二日間で、文劇4のディレイ配信を見ました。作業しながら流したり、いつの間にか見入っていたり、ゆっくりと家で過ごしました。初日、落ち着いて見れなかった分、ゆっくり見ようと思っていました。なかなか再生できないのが現実でしたが、それでも、見ました。たくさんの事を考えながら。


初日、私が感じたのは、舞台は楽しい、という事が強くありました。文劇4は爽快で鮮烈な印象の舞台で、なんだかサイダーみたいな舞台だ、と初日の観劇後のふせったーには書いていました。文劇3が小説を書く私に刺さった舞台だとしたら、文劇4は、俯きがちの私の顔を上げさせてくれた舞台です。こっちを向いて、を言われている気がしました。舞台上の徳田秋声に、僕と同じものを見て、と。こちらも初日のふせったーで書いた事ですが、文豪とアルケミストという作品が転生ものである限り、どうしたって過去ありきの作品になる訳で、だけどそこから、進んで行こうというのが覚醒ノ指輪の実装の流れなのかなと思います。なのでその覚醒ノ指輪が出て来る今回の文劇4は、「今」に視点をシフトしたような話になるのかなと。秋声に関して、これまで少し消極的だった、わかってもらいたい、という感情や、面倒と前置いておかないとならない、守りたい、という思いを、わからせたい、守る、そういう強い言葉で言えるようになったんじゃないかなと思います。そういう、強い姿勢になった、というか、開き直ったというか――多分、いい意味で――、そういう新しい視線の、徳田秋声と、太宰治。二人もだし、鏡花の方でも、しっかり秋声と同じ物を見よう、という意思を感じました。


文劇4から、私は、シンプルに「前を向く」事を受け取りました。悲鳴のような文劇3、泣きながら歩いた帰路は忘れられません。深く、記憶に、心に残っています。傷をつけられた事が、それでも嬉しかった舞台です。だけど、舞台は本来楽しい場所なんだと、文劇4は教えてくれました。文劇4では、それを思いだして、楽しんで欲しい。そういう風に受け取りました。

それでも、九日の夜には、残りの東京公演が、全て中止になる事が発表されました。願えば叶う、というものでもありませんでした。東京楽も、チケットがありました。太宰をイメージした、着物の装いで向かうつもりでした。本当に、とても楽しみにしていたので、何も手に着かなくて、だけど眠る事も、その時は配信の映像も見る事が出来ずにいました。楽しかった分、ショックも大きかったです。もっと、落ち着いて、劇場でもう一度、文劇4が見たかった。それが本心です。だけど、それは難しい事でもあります。幕が開くだけでも、何度か公演ができるだけでも、配信映像があるだけでも、「まし」なのです。だから、一度、観に行けただけでも。そう何度も思うのに、悲しくてたまりません。

楽しかったのです。手放しで、そう言えてしまったのです。何かを考える、よりも先に、楽しい時間を過ごせたと、思える舞台でした。それだけ、この先も憶えていたいです。きっと、沢山の人達が、あの時間のために、その何倍以上の時間を、かけてくださった人達がいるのです。


大阪に無事に幕が開く事を祈ります。どうか、舞台に、何があるのか。それを知ってる方々の、思いが、良きものとして残りますように。大阪で観劇する皆様の、感想を待ち遠しくしています。


2022.2.10


二月十四日、文劇4の公演が、大阪公演の幕が、どうにか開く事が決まりました。それを知って、あまりの安堵に涙して、どうか千秋楽をと祈っています。

こんな事は、ずっと前から人々が、直面した人もそうでなくても知っている事なのですが、私はいつも自分の側の事でしかこんな風に感じる事が出来ないので、今ようやく、文化芸術がそこに在るのだという事を、消えていないのだと、辛い事態になっても立ちあがってくれるのだという事を痛感しました。絶対に、消えない、きっと誰も諦めていないのです。確かに全公演がなくなった舞台もあります。私は、一度、企画自体が延期になった舞台がありました。今年、その舞台は公演が決まりました。生み出す事、生み出されるもの、それはきっと、ずっと、続いていきます。人間がいる限り、文化芸術の灯は消えません。ようやく、理解できました。

私をここまで連れて来てくれた、文豪とアルケミストの舞台が。きっと、ずっと、その灯を消さずに私の道を照らしてくれる事、人々の心を温めてくれる事を、信じています。

あなたがいてよかったと、本当に思っています。無事に千秋楽を迎えられますよう、歩いて行ってください。


2022.2.14