【魔法つかいプリキュア!】忘れかけていた魔法

大人になると、忘れがちなことがある。
成長するにつれて時間は待ってくれなくなる。
仕事では何かしらの成果を出さなければいけない。
それ一つだけにたくさんを割くことも難しい。

子供の頃は、たいていの物事をよく知らなかった。
できることもごく限られていた。
おまけに、その事実すら理解せずにいた。

だが、どのような形であれ、私達は成人して、今を生きている。
それは、ずっと積み重ねてきた知識と経験とがあるからだ。

みらい達は、プリキュアとして、二つの世界を守るために戦う。
ナシマホウ界と称される人間界と魔法界のことである。
デウスマストはこれらをない混ぜにして、秩序のない混沌を創り出そうとした。
ひとまず彼は両界を引き寄せ、復活を果たす。

両界の人々から生命力を、みらい達は少しずつ受け取る。
それは万物を生み出すみなもと、、、、だった。
ついに彼女達はデウスマストを倒す。
しかしながら、その反動で、お互いの世界は再び遠く離ればなれになってしまう。
もうどちらを行き来することもできない。

ことはは、この異常な接近でのゆがみを自然な状態に立ち返らせるべく、宇宙と一体の存在となった。
『魔法少女まどか☆マギカ』のラストのまどかと同様だ。
ことはの肉体は消え去り、概念として意識だけが残る。

みらいとリコも、それぞれの場所に帰らなければならない。
杖を重ねて、再会できるように魔法をかけ合う。
そうして彼女達は別れる。
本来のようにナシマホウ界からはいっさいの魔力が失われた。
モフルンも単なるぬいぐるみへと戻る。

去り際にリコが話す。
この世がどうあっても、二人はきっと出会っていた。
それは必然の奇跡だ。
彼女達は結ばれている。
本人達が求めさえすれば、何度でも巡り会うことができるはずなのである。

みらいは大学生になった。
祖母との会話の中で、みらいはかつて聞かせてくれた不思議な話が大好きだとしゃべる。
微笑んで祖母が語る。

「素直な言葉は力になる。想いがつながっていれば、それは——奇跡を起こすのよ」

その夜、みらいは机から落下したモフルンを拾い上げる。
ふと窓の外に輝く十六夜いざよいの月に気づく。
彼女はモフルンを抱いて外に出た。

桜並木を歩いていると、自身や友人達の近況、将来など、話したいことが自ずとあふれる。
みらいは月を見上げる。
リコの姿を最初に見たのも、ちょうど十六夜のときだった。
本音が彼女の口をいて出る。
ひとすじの涙が、頬をつたった。

木の上から、一本の枯れ枝が落ちてくる。
みらいの使っていた魔法の杖が変わり果てたものだ。
ぎゅっと握りしめて、呪文を唱える。
そして願いを叫ぶ。

けれども、むなしくあたりは静まりかえったままだ。
彼女にも分かっていた。
もはや魔法はどこにもない。
自分に言い聞かせ、枝を投げ捨てる。
みらいは、その場から立ち去ろうする。

本作は、以前に他の記事でも多少触れたことがある。

二人の間には、色々な出来事があった。
氷の島で喧嘩をした。
どちらも相手を呼び捨てにするようになった。
魔法学校で授業を受けたり、逆にナシマホウ界のほうに通ったりした。
それぞれで同級生達と仲良しになった。
列車カタツムリニアの中で冷凍みかんを食べたり、海に遊びにいったりもした。

すべてを書きつくすことはできない。
いくらなんでも、五〇話をくまなく覚えているわけはない。
各話の印象にはやはり差がある。
『ハートキャッチプリキュア!』や『スマイルプリキュア!』は、全編ともに平均してクオリティが高いと評判だ。
ハトプリならば、父の日やキュアサンシャインの初登場、ムーンライトの復活が特に忘れられない。
スマプリであれば、同じく父の日や修学旅行、ロボットに変身、キャンディとの入れ替わり、となる。
どれほどの名作も、この視聴者の感覚からは決して逃れられない。

とはいえ、観れば観るほど、どんどん作品に慣れ親しんでいく。
ほぼ一年にわたって、私達はみらいとリコのかかわりを目にしてきた。
二人がどれだけお互いを大切に感じているかを、その期間を通じて徐々に心得てきた。
いずれ予想される別れのさびしさ、つらさを、なんとなく察していた。

それは、積み重ねの結果だ。
五〇話という分量は、なかなかばかにできない。
先の記事の『ここたま』でも、例えば他に『プリティリズム・レインボーライブ』のなるとりんねの関係でもそうだ。
人物達の離別を、物悲しく、そして劇的に彩るのである。

みらいは祖母とのやりとりを思い出す。
振り返って杖を拾う。
月にかざし、もう一度呪文を発する。
二人で一緒に過ごした日々が、次々とよみがえってくる。
何回でも繰り返す。
ぼろぼろと涙がこぼれ落ちる。
記憶はとめどもない。
目頭をぬぐって、ひたすらに続ける。

池の水面に、月がおだやかに映っている。
むせびながら、途切れとぎれにつぶやく。
弱々しくなった声で「リコに、みんなに会いたい……」と口にする。

その瞬間、首からさげていたリンクルストーンがきらめきを取り戻す。
枝が魔法の杖に変わる。
風が吹いて桜の花びらが舞った。

みらいは上空にいた。
突如として列車カタツムリニアが飛び出してくる。
驚いて、彼女はモフルンを手放してしまう。
ところが、すぐさまそれをつかんだ手があった。

懐かしい声をみらいは聞く。
今度は喜びの涙が目に浮かぶ。
思わず彼女はたずねる。
「夢じゃ……ないよね」
十六夜の月を後ろにして、リコがホウキに乗り飛んでいる。
二人は抱き合う。

そのとき魔力を帯びて、モフルンが再び意思を持つ。
さらに、ことはがみらい達の手を優しく取る。
幸せを噛みしめるように、みらいが強く言いきった。
「また、みんなと会えた。ワクワクもんだ!」

何度でもいうが、プリキュア史上どころか、子供向け作品の中でも指折りの名場面だ。
最初に流れる挿入歌「ふたつのねがい」は、優しく素直な歌い方の曲で、みらいの一途な気持ちを引き立てる。
「キラリ☆1000カラットの奇跡」は、その明るい雰囲気で、この上ない感動をあざやかに演出する。

日曜の朝から私は泣いた。
ツイッターにも、同じ人がたくさんいた。
その晩に観返して、また泣いた。

ひたむきに何かを信じることは、年を取るほど困難になる。
個人ではどうしようもない様々な決まりごとを、いやおうなしに知ってしまうからだ。
みらいにとっても、魔法はすでにおとぎ話になりつつあった。
改めてそれを現実のものにしたのは、かけがえのないリコ達との友情だった。
二人でかけ合ったあの魔法は、彼女達の、世界をも超えた心の強い結びつきにほかならない。
それは奇跡へといたる道であった。

大人になってしまえば、地道な努力にも本心からの信頼にも、あまり構ってはいられない。
それらの魅力はとっくに色あせてしまっていた。
だが、完全に消え失せたわけではない。
自分から打ち捨てなければ、私達に奇跡の可能性を今でもはっきりと示してくれる。

デウスマストやことはの設定は、元々対象としている年齢の子には相当に難しいと思う。
けれども、別にしっかりと把握している必要はない。
ただ一つ、みらい達の深い想いを分かっていればよい。
そうすれば、この価値を存分に味わうことができる。
難解な比喩や象徴とはまったくの無縁だ。
シンプルかつストレートに視聴者の胸に響いてくる。
子供向けアニメの真髄が、ここにある。

次回予告でみらいが話すように、実はこれはまだ最終回でない。
第五〇話が次にひかえている。
それで、まちがえなく本当に終わってしまう。

が、いつしかもう私達は魔法にかけられている。
みらい達と、制作者とによってだ。
その最高の効果こそ、この第四九話「さよなら…魔法つかい! 奇跡の魔法よ、もう一度!」であることは、いうまでもない。

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