評論ではなく感想文

誰かに認められたいとき、褒められたいとき、あらかじめ称賛が欲しいと伝え保険をかける。称賛に限らず、欲しいリアクションを伝えておくと一方的な期待に裏切られるなどといった自傷行為は防げる。

それが何を思ったのか、無意識にこの人ならこの言葉が返ってくるだろうと都合よく人物像までも推し量り、まさかそれを翻された瞬間はこの上なくセンセーショナルだ。
そのときに理解されない、この人は解ってくれないと解釈することほど哀れで安い大人はいないと思う。それはもはやセンセーショナルというより、寝耳に水そのものの間抜けな絵面ではないか。

と、小説のプロローグ風に書いてみたが、これはただの日記だ。
今日、昨日のnoteを作業療法士に見せた私は、まさにこの哀れで安い子供だったのだが。
「コメントとか見えるの?他の患者さんで文章をネットにアップして、返ってきたコメントを考えすぎて気を病んじゃった人がいるから…」
と言われ、一瞬何を言われているのか分からなかった。
3秒ほど考えて、「心配してくれているのか。」とやっと理解し、2秒挟んで、失礼ながら「余計なお世話」だと思った。
私は誰かに何かを訴えたくて書いているわけではなく、自分が考えていることを可視化し、他人の主張が響き渡り自分の居場所がわからなくなるような世の中で地盤を固めている。そんなたいそうなものでもないが、あえて表現するならこうだ。
それが誰かに理解されることはまったくもって重要ではなく、ただの趣味だね。
どうせ鼻から興味ないやつは見ないし、見て何かしらの感情を抱かれてもそれはその人の自由だから、別にどうでもいい。それこそ、何か言われて気に病むようなら向いてないと思うが、見られてまずい区域には出ないように調整しているし。

とまで、心の中でお喋りし、「まあこの人は心配するのが仕事だしなぁ。」と一瞬冷静になった。それは解ってくれないといった身勝手な感情ではなく、「この人の言いたいことはわかるが」がありきの持論。もちろもちのろんろんでバトルもしない。
ただ衝撃的だったのは、誰かに何かを訴えているわけではないと言いながら、この人には特定の反応を期待していた自分の思慮の浅さ。

_センセーショナル_

と、そこで何かが繋がったような予感がした。思い浮かんだのは、最近読んでいる小説だ。小説家も達観したように、登場人物に化けさせて自分の感情や論を表現しているだけで、やってることやその動機は実は似てるんじゃないか、と。
特に、ストーリーや一人称での感情の移り変わりより、幼稚さが残るキャラと達観した芸術おじさんの掛け合いなんかを前に押し出すタイプのは、いい意味で悪質。というかある意味、空想のキャラクターに投影させることで、トリッキーでセンシティブな思考や題材も面白がられるに留まるというか。言い換えれば、本来ストレートな表現を小説という技法にすることで、逆に説得力を増しているというか。
恐らく、言葉に美しさやロマンを感じ、自ら表現することで、概念が3次元のメモリとなり奥行きが生まれることに快感を覚えるタイプってところは同じなのだと思う。
だから小説の表現を無意識に輸入していたり、小説で輸入したものの見方を咀嚼して何かのヒントを得たりしてしまう。そして叶うならそれを「誰かに伝えたい」。
まあ、小説家の場合、表現に一定の責任が伴うという点では同じ土俵に立てないが。
1周回ってまた、自分は言葉が好きな人間で、半周進んで「誰かに伝えたい」人間だいうことに気付かされた。

センセーショナルに思わぬ気づきをもたらされた今日の出来事。


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