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君が好きだと言ったワンピースを着ていく健気さは、きっともう伝わらないだろう。

「それ、かわいいね」

階段を降りる後ろから、ナイショ話をするような声がする。呼び止めるわけでもなく、聞いて欲しい、というような声色でもない。単純に、ただ思ったことが口から出た、とでもいうような。

「うん、最近買ったお気に入りなの」
「ふーん、上着着てるときは分からなかったけど、さっき店の中で上着脱いだところ見たら可愛いなって」

そっと振り向いて返事をすると、軽く微笑んで、トントン、と弾むように階段を降りて隣に並んでくる。
背が高い私よりもずっと大きい。あまりひとを見上げることのない私の目線が上がることが珍しかった。

かわいいね、と言われたレトロな柄のジャンパースカート。
背中のジッパーは、本当は下ろされるのを待っているのだ。ジッパーなんて、役目なんて、所詮そんなものだ。
着させるために、上げるために存在なんてしていない。脱がされる、ということは、着るためよりももっとずっと私にとって大切なことだった。

ほんの少し体のラインが出るタイトな作り、絶妙な丈の台形スカート。
その下に潜らせているタートルネックなんて、逆に自分の浅はかさを露呈しているようで少し恥ずかしくなった。

見て欲しいのはこの上辺なんかじゃない。この服の下、ほんとうはもっと、もっと奥。体という上っ面に隠されて見えない、柔らかな、形のない。

「この、脱がしやすそうなところがたまんないね」
「そういうことばかり考えているひとのための服だよ」

クスクスと笑いながら、まったくもう、とわざとらしくため息をつく。
だってジッパーを下ろす瞬間が好きなんだ、とチャームポイントの八重歯を覗かせて笑うその顔が憎らしい。
好きなんかじゃないのに。
「好みの顔」にめっぽう弱い自分をひねり潰してやりたい。ああ、噛まれたいな。その八重歯に。

階段を下りて道に出ると冬の空気が一気に肌を冷やす。
マフラーまで巻いて、頑丈な、コートなんてものまで着ているのに、ほんの少し露出している手と、頰が冷たい。
はあ、と吐く息は白くて、そしてさっきまで好きなだけ飲んでいた日本酒の甘い香りがした。

冬の空に似合うのはこういう空気だ。
寒いはずなのに、冷たいはずなのに、内側から熱く燃えるような体温。
お酒のせいで火照る頰と体だけ持て余しているこの時間だ。これだけでいい。こんなものに感情なんていらない。

「ね、俺ね、あなたにだけは手を出したくないの」
「、ふうん、?」

あなた、と、私を呼ぶ音がこんなにも切ない響きを持つなんて、私は知らない。ポケットの中に突っ込んでいる掌に食い込む爪の、握りしめた力の強さに呆れる。
好きなんかじゃないのに。好きなんかじゃ、ない。

いっそ簡単にその手を伸ばしてくれたら。もっと単純に求めてくれたら。私のことをこんな風に大事にしないで過ごしてくれたら。私の望みは叶うのに。こんなにも手に入れたいのに、叶わない。
ほんとうは、きっとどうせ、それを手に入れたってなんにも叶わないことなんて、分かっているけれど。

「だけどそんなに脱がされることを待っているような服で、俺を試さないでよ」
「試していないよ」

私が着たいだけ、私のお気に入りなだけ。
嘲笑気味に笑うと、ズルすぎやろ、と気の抜けた故郷の言葉が漏れた。
なんでこんなに揺さぶられるんだろう。ただの音の響きなのに。「声が好き」という可愛らしい女の子たちの、彼を褒める柔らかな口元を思う。
そんな生易しいものじゃない。そんな美しい感情じゃない。もっと丸ごと。耳の穴から全部ぶち込むみたいにほしいのに。

ふと、嗅ぎ慣れたヴェルサーチの香りが濃くなったと思うと同時に、ポケットに突っ込んでいた手がごそっと引き抜かれる。
ぎゅ、と両手で包まれるように握られたその手に、そっとキスをする薄い唇の体温が苦しい。

「俺のことを好きじゃないところが、ずっとずっと好きだ」

残酷すぎる愛の告白は、きっとずっとこの先もこうして私のナカを揺さぶるのだろう。
下ろされるためのジッパーは、そのためだけに用意されたような上手な手によってその役目を果たすのだ。
こんな風にまっすぐな手には、それはきっと役不足すぎる。

「…じゃあね、おやすみ」

私の手を握ったままじっと動かない大きな体をほんの少しだけ抱きしめて言うおやすみほど、どうしようもないセリフなんてない。

私を救ってくれるのは、皮肉にも、上手な手の方なのだ。不器用でまっすぐな、熱を持った掌には到底届くことのない、優しい冷たさ。
浅はかな私の望みは叶えられることなんてないまま、この冬もまた、私を置き去りにして終わっていく。

タクシーの窓の向こう、姿が見えなくなるまで見つめてくるその瞳から、逃げるように、そっと。

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