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「決断」とは、大切なヒトのことを再確認することなのかもしれない


会社を辞める、移住する、店をやる。

そう決めてからというものの、そんなことばかり感じる日々だ。

決めるということは、それに付随して「なにを優先したいか」ということを明確化することになる。それにはモノもカネも含まれるだろう。ヒトだって間違いなくある。

今回の決断で、ぼくの頭に付いて現れたのは、ヒトはヒトでも、自分にとって大切なヒト、だった。

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誇張でもなんでもなく、自分自身のことを表現するなら、ロボットのようなヒト、だと思っている。

ぼくは比較的感情の起伏がなく、だいたい精神状態は一定だ。それがゆえ、世間で「泣いた」とか言われる映画や本に触れても大抵はなんとも思わないし、そういう人の話を見たり聞いたりして「盛りすぎでしょ」と思ってたりする。つまりは、共感力がきわめて低いと言ってもいい。決して性格がいいとは言えないタイプだ。

この共感力の低さというのはわりとコンプレックスで、特にSNSが中心になってきたここ数年、強く感じるようになった。他人の気持ちもなかなか素直に理解できないし、同じ時間と場所を誰かと共有していても、そこで感じとる何かの総量はほかの人の何分の1にも満たない。

これはこれで生きやすいのは確かだ。特に仕事の面ではそれがパフォーマンスの安定感に繋がったし、信頼を得る力にもなった。感情の起伏が激しい人を見ていると人生たいへんそうだなと思うし、疲れそうと思ってたりする。言葉を選ばずに言うと、メンタル弱すぎだろ、みたいな具合に。

けれども、生きやすい、はいつの日か、つまらない、に転じていった。人間性の欠如、と言えばいいのだろうか。自分ではわりと本気でそう思うことがしばしばある。もっと人間らしく生きたいな、そんな綾波レイが言いそうな思いにふけることだってあった。

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そんな自分でも、約34年間生きてきて、いま、最も人間らしく生活をしているような気がする。

その理由は、いまさら?と鼻で笑われるかもしれないが、「ヒトっていいな」と感じられるようになったからだ。

もっと言うと、自分にとって大切なヒト、というのが分かってきているような気がしてきている。それと同時に、自分のことを大切に思ってくれているヒトのことも。

このヒトのことを困らせては駄目だな

とか

このヒトのためにも頑張らないとな

とか

この歳にならずとも本来芽生えていそうな感情が、いまさらになって生まれてきている。

それは、自分が大きな決断をしたからにほかならない。

決断をすることで、何かを諦める必要が出てくるかもしれない。そんな中で、これだけは譲れない、という大切なものが頭の裏のほうで映像としてきわめて鮮明に現れてきたのだ。

今までも、仕事を通じてそれなりの決断はしてきたつもりではある。その度に何かと何かを天秤にかけていたように思うが、そこにヒトという存在が乗ることはなかった。大抵は、得られるスキルや給料などが中心だった。

それが今回はどうだ。このヒトたちのことは大切にしたい、という感情が他の何よりも重く存在している。まだヒトのことを想って涙したことがない自分にとって、これは大きな前進だ。こんな自分もいたのかと一人でニヤついてしまうこともあるんだから、自分も変わったなと思う。

そういえば、大学を卒業してからというものの、結婚を決めたり、起業したりする友人たちに対して羨望の眼差しを送る自分がいたのを覚えている。

それは、それ自体に対するものではなく、その決断を通して「大切なヒトを見つけた」ということが伝わってきたからなんだろう。見つけた、ではなく、気づいた、再確認した、ということなのかもしれない。今回の自分もそうだ、大切なヒトは、すでに周りにいた。


今回の決断は、ほかの何にも替えがたい宝物をぼくの手にもたらしてくれているのかもしれない。 決断によって一歩踏み出したつもりでいたが、さらにもう一歩進んだようだ。この意図せぬ一歩のほうが自分には何倍も大切だった。

10年先、20年先、未来の住民のために木を植えます。