Monologue #07 “恵まれている”の定義
自分が、恵まれているのかどうか、考えたことがあるだろうか。
例えば、誰かが私になれるとして、「羨ましい!なれるなら、なりたい!」と思うような人生だろうか。
いやいや、睡眠時間も短く、日々立ち止まる時間もないまま働く私の生活を、誰がやりたいなんて思うだろうか。そうは思えない。
では、私は恵まれていない人生だろうか。
それも甚だ疑問だ。
経済的に裕福とは言えないが、困窮はしていないし、ありがたいことに学校にも通わせてもらって、仕事も得て、家族もそれに協力をしてくれている。
しかも、幸福なことに、子どもを得ても家族も職場も私が働き続けることを支えてくれたし、過去でも、現在でも女性だから、と不利な立場になったこともない。
だから、私は、あまり、自分の性別を強く意識したことがない。
これを恵まれていない、と言ったらバチが当たりそうなくらいなのではないか。
そこまで考えて、1つの疑念が生まれた。
そもそも、“恵まれている”の定義を間違えているのではないか。
不安がなく、余裕があり、満ち足りた生活が“恵まれている”ことだと思っていたが。
努力をして、それの見返りを得られることが、“恵まれている”ということなのではないか。
何かを掴もうとする時に、それを掴む権利と、力と、掴める位置にいる、そのことこそが“恵まれている”ということなのではないだろうか。
そうなると。
“苦労をしないこと”や“努力をしないこと”は恵まれている、の定義には入っていないのかもしれない。
結局は足掻くしかないのか、と少し暗澹たる気持ちにもなるが。
足掻かせてもらえることすらも、“恵まれている”のかもしれない。
ありがたい、と思うけれども。
人生は厳しい。
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