はじめての思索

外的刺激の最小化された状況に置かれると、人間は内省に走るらしい。
コロナ禍真っ只中の夏、私は静寂に満ちた白昼のリビングで自分に問いを発する日々を過ごしていた。
教育、市民、弱さ、贈与、介入、真摯さ、対話、人間、哲学、コスモポリタン、感受性、物語、記号、脳。問いの反芻は思考の緻密さを増すのには役立ったが、自分の内的世界を充足するには至らなかった。

無為の自分に焦ることは久しくなかった。元々極度の内向型人間だったのだ。共感覚の影響か、小さい頃から私の内側は常に虹色だった。外部の刺激も色となって身体に飛び込んできた。時に色の洪水に溺れて息継ぎすることを忘れながら、自分の内部に行き届く虹色の内的世界を守って生きてきた。その内的世界を守る術は、社会から見れば何とも不合理であり、ただの気まぐれか自己中心性の発露としか評価され得ないようなものであったが、私の思想を守るためには最大限の効果を発揮した。凪いだ世界に閉じこもり、思索にふけることには慣れ切っていた。

しかしその志向性は変容した。記述的に見れば、領域を侵犯されることに鈍感になった。他者と四六時中至近距離でつながれるアプリを手にし、通話越しのタイプ音に耳をすませながら自分のタスクを消化する。迷走するメディアを毎日開き、代わり映えしない「専門家」から「最新情報」を受けとる。能動的に内にこもることはあっても、指示されるがままの隔絶は物心ついてからはじめての経験だった。意に反した切り離しの反動か、何かを為している自分を感じたくなった。しかし、無機的なテキストデータの束を受信するたびに、漠然とした不安が雪片となって降り積もる。あの内省の日々は遠い過去となる。

ぼくの手は
ほんとうは
それだけのためばかりではない
なにかのためにあるのだけれど
なにかやさしいなにかのために
なにかしたくてあるのだけれど
おんぼろの手は
ひらいてみても
にっこりわらっているばかり
あどけない眼が
だまってぼくをみつめているのだ
銀河のむこうで
すこしふるえて

池井昌樹「銀河のむこうで」(池井昌樹『一輪』思潮社)より抜粋

長夜に一人自宅で覗き込むラップトップからは火花のような音がしていた。その熱で不安の雪片は溶けた。私は、大小様々な窓から坩堝と化した情報のフローを受け止めるほかなかった。

コロナ禍で生を重ねるにつれ、自分を語ることや、他者に干渉されることへの抵抗感は薄れていった。むしろ、無為の自分を恥じていた。卓越した他者の飽和する小さな窓の中では、自らの核を自覚し、ありたい自分を持っている者のみが健やかに生きてゆける。自己のありかとその立脚点を把握してさえいれば、おのずと自己への信頼が生じ、外的世界への語りが可能になる。自己を物語れる者が勝者だ。外的世界に唯一開かれていたあの窓の向こうで、海外大学に進学した知人の、哲学的思考を乗りこなしていく先輩の、活動的な同期の密な語りに出会うたびに動揺し、そう思わざるを得なかった。

私の自己物語は自己物語論的になった。生まれてこの方、社会や他者の手触りにこれほど焦がれたことはない。外的世界からの不可逆的な隔離は、外的世界への執着を生んだ。そして、外的世界に眼を見開いて向き合うようになってから、周囲の事物は色という視覚刺激として飛び込んでこなくなった。色でなく、輪郭を持った個物になった。周りの形を、手触りを几帳面に確かめる癖がついた。その手応えなしには歩めないほど、私はもろくなってしまった。しかしこのもろさは悪ではない。レッドオーシャンに類比される世界で、柔弱な葦となるきざしだと考えている。

視覚に支えられた虹色の内的世界は、もはやバッファとしての役割を果たさない。コロナ禍において、目に見える社会の不確実性が露呈したことも影響しているかもしれない。今の私は、あの虹色の内的世界に代わるよすがを手探りに求め続けているのだ。

コロナ禍の間、私は自分の羽化を見守っているような気持ちになっている。
この機を逃さず、もう少し語りを拡げてみようと思う。

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この文章は、「#いまコロナ禍の大学生は語る」企画に参加しています。
この企画は、2020年4月から2023年3月の間に大学生生活を経験した人びとが、「私にとっての『コロナ時代』と『大学生時代』」というテーマで自由に文章を書くものです。
企画詳細はこちら:#いまコロナ禍の大学生は語る|青木門斗|note
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また、これらの文章をもとにしたオンラインイベントも5月21日(日)に開催予定です。
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