見出し画像

握手

振り返ると、様々な環境要因と長男本人の性格や成長、努力によって、私達親から見ても本人の感想から伺っても、恵まれた初等教育課程の6年間を過ごすことができたようで、親としても本当にありがたく思っています。

一方で長男が小学校を過ごした6年の間には米国の大統領選挙が2回あったり、コロナ禍があったりと、日常的な実感値としてもメディアにおいても、人種的な差別に関する話題が全米で取り上げられ広がった時期でもありしました。また、表立ってはそうは言わない、言えないけれども、宗教的、思想的価値観も含め人種的差別を意識、無意識的にしている人達が存在することは、日常的に感じることではありました。車の運転中も買い物中も、レジでも、コミュニティーでも、また、残念ながら学校でも。

ただ、自分の勝手な思い込み、理想、願望ではありましたが、ある程度上のポジションの方々は個人的な嗜好・思考を持っているにしても少なくとも職務任務中はそれらを横に置き、できるだけ公正公平に対応してくださると思い込んでいた、私個人が期待していたところがありました。なので、その出来事は尚更驚いた出来事だったのだと思います。

それは長男が米国で義務教育課程(キンダー)を始めるにあたり、学校のMeet and Greet/School Open Day(新学年を迎えるにあたっての学校説明会)に参加した時のことでした。

夫も私も生まれも育ちも日本。夫婦共に全ての教育を日本で受け、日本の企業に入社。夫の駐在で米国で生活を始めるまで、海外での教育システムに触れたことはありませんでした。初めての妊娠、出産、育児からの初めての学校教育へのスタートということで、長男の義務教育課程が始まるキンダークラスに入学する際は、本人も私達夫婦も色々な意味でドキドキしました。

家庭内言語は日本語ではありますが、長男自身の言語獲得意識の高さと興味も重なり、生活言語としても年齢レベルの学習言語としても英語には不自由なく過ごせてきたので、言語面での心配はそこまではありませんでしたが、私達親が経験したことのない教育システムで長男がどのように学習、学校環境に適応していくのか、果たして適応できるのか??長男にとっても沢山の初めてであると共に、自分達が経験したことのない学校環境に通う長男を親として見守ることは、私達にとっても全てが一からの学びでした。全てが新鮮で興味深い一方で、戸惑いや不安や心配も多くありました。

そのような中でのSchool Open Night(新学年説明会)。
学校の校舎の中はどんな雰囲気なのかな?
先生方はどんな先生方なのかな?
クラスメート達はどんな生徒さん達なのかな?

私の色々な???を知る由もなく、期待一杯に足取り軽い長男を先頭に、私達家族は学校の中へと入って行きました。学校説明会の会場となるカフェテリアは入り口から歩いて少し奥まった場所にありました。入り口の扉を抜けると、受付付近からカフェテリアに向かう方向に向かって学校の先生方が横並びに一列に生徒達とその保護者達を迎えてくださっていました。入り口近くの列の先頭に立っていたのは校長先生でした。

校長先生は校内に入ってくる生徒や保護者の方々に笑顔で挨拶をしたり、握手をしたり、終始にこやかにされていました。

さあ、私達家族が挨拶する番が来ました。息子に笑顔でご挨拶くださり次は私の番。他の保護者の方々がされていたのと同じように、そして欧米での初めての挨拶ではとても大事な礼儀である握手をしっかりしようと自然な流れで私は右手を差し出しました。校長先生の右手は私達の前の家族と握手した時と同じように差し出され、私は先生の右手に触れその手を握りました。

しかし、私の右手が握り返される事はありませんでした。ただただそこに先生の右手が触れているだけで、校長先生の右手を、私がただ握っているだけなのです。あれれ?と思い、先程よりももう少し気持ち力を入れて再度手を握りました。それでも私の手が握り返される事はありませんでした。

おそらく周りから見ると握手し合っているように見えるけれども、実際は握り返されていない握手。更に悲しいことに私が手を差し出し先生にご挨拶をしたその瞬間に、校長先生は少し遠くに見つけた知り合いの保護者の方に目線を向け、その方に目と声でご挨拶されていました。そして最後まで私の手は握り返される事はなく、校長先生と目が合うことも私への声掛けもありませんでした。

それはほんの2 、3秒間の一瞬の出来事でした。ほんの一瞬のことでしたが何とも複雑な感情を伴う経験として、振り返るたびに色々な感情が湧いてきます。

なぜ私の右手は握り返されなかったんだろうか?
なぜ私の目を見て挨拶してもらえなかったんだろうか?
なぜ私への挨拶の言葉はなかったのだろうか?

色々なたまたまが重なっただけだったのかもしれません。

たまたま先生は手が痛かったのかもしれません。

たまたま遠くに見えた知り合いの保護者の方がとても大切な方でそちらの方に意識が強く向いていたのかもしれません。

もしかしたら先生は手を怪我していて、周りの方にいらぬ心配をさせないように、とりあえずは手を出すだけのことをしていたのかもしれません。

沢山の生徒保護者と握手をしすぎてもうそろそろ握り返さなくていいかな〜と思って、とりあえず手を出すだけにしたのかもしれません。

他の生徒、保護者の方とも(周りからはわからないけれど)ただ手を触れるだけで、どなたともいわゆる手を握るということをしていなかったのかもしれません。

ある特定の人種だけを良しとする思想の持ち主だったのかもしれません。ある人種を好まない方だったのかもしれません。初対面でしたが私に対して個人的に好まない何かを感じたのかもしれません。

文頭に書いたように、振り返っても長男がお世話になった6年間は本人にとっても私達親にとっても本当にありがたい小学校生活だったと思います。振り返ると。

ですが、その出来事が理由でしばらくは疑心暗鬼になり、息子に学校で嫌な目に合っていないか、公平に接してもらえていると感じているか、排除されているように感じることはないか等々を、折に触れ(息子が要らぬ心配や先入観を持つことのないよう、息子には悟られないようにと慎重に言葉を選びながら)息子に確認していました。校長先生の握手のことは夫には話しましたが、長男には話しませんでした。握手を握り返されなかった理由はわからないので、私自身の主観的想像からの相手への先入観を息子に入れたくなかったからです。息子が通う学校ですから、息子が安全、安心と思えるのならばそれで良し。私の差し出した手が握り返されなくとも、目を見て挨拶してもらえなくとも、息子が大丈夫と思えることが何より大事なことだからです。

平等、公平、人種差別は許されない。学校でもメディアでも何度も何度も繰り返し触れる言葉です。そうではない現実があるからこそ継続して繰り返される言葉です。

その校長先生はとある理由で数年後に退職されました。その校長先生が在職中に息子は本人が感じる限りにおいては特に嫌な目に、不安な目には遭わなかったようなので、本当に本当にありがたく思っています。本当に幸いだったなと思っています。

次にいらした新しい校長先生との初めてのご挨拶の際。
また同じような状況になったら嫌だな、握手はなくとも目と声での挨拶はしてもらえるかな、安心して息子を預けられるかな。
と、新学期が始まる前のSchool Open Night。前校長先生の時と同じ様に校長先生にご挨拶する時が来ました。不安ながら右手を差し出しました。差し出した私の右手は新しい校長先生の右手でしっかりと温かく握り返され、ほっとしたことは今でも忘れません。息子の話から伺うに、その先生はユーモア溢れる先生で、毎日沢山のユーモアで、生徒も先生方も明るく前向きに過ごせる時空間を創ってくださっていたようです。コロナ禍もユーモアと素晴らしリーダーシップを持ってより良い学校環境へとご尽力されていたご様子でした。

私自身も意識せず、色々な偶然が重なって意図せず周りに嫌な、不快な、残念な思いをさせていることはあるかもしれません。おそらくあるのが自然なことなのでしょう。人間ですから。万能ではありませんから。自分にそのつもりがなくとも、受け手がどう受け取るかは相手次第ですから。

とは言え、目の前にいる相手に対しては意識を向けて向き合う姿勢を持ちたいと思った出来事でした。

そして、差別的な理由ではない何かを見つけたい為に、あの時握り返されなかった握手の理由を、こうかもしれないああかもしれないと、一面からではなく、できるだけ多面的に想像するようにしています。あの時ちくりと胸に刺さった棘を抜き、徐々にでもあの時の痛みを昇華させたいと、米国の新学期が始まる9月頃に決まって思い出す出来事でもあります。

最後までお読みくださりありがとうございました。
こうして文章に書いて言語化、可視化し、経験した出来事を多面的に考察して消化・昇華できるようにゆるゆると継続できたらと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?