窒素吸って安心する人
曖昧な何かを信じて安心する人がいる。空気だ。
この国で空気が持つ力は絶大だ。実際にルールが定められてる訳でもない、非効率的で大きな弊害があっても、「みんなやってる」「そういうもん」でまかり通ってしまうことがとても多い。
空気を読むことの8割くらいは意味がないと思っているし、そもそも空気は「読めない」。誰だ最初に「空気を読む」なんて言った奴。
空気なんて僕たちができるのは吸うことくらいでしょう。そして8割くらい意味がないんだから、これは空気というより実質窒素だろう。窒素って無味無臭無色で空気中の80%近くを占めている。普段たくさん吸っているけど、害はない。吸わなきゃいけない訳でもない。
普段僕たちが読んでいる空気って窒素みたいなもんなんだと思う。
窒素を吸っても特に問題はない。でも窒素だけ吸ってれば生きていけると思ったらこれは問題だ。窒素以外も吸ってかなきゃいけないのに窒素だけ吸って安心する人多すぎません?
空気感が作り出しているものはこの国に数えきれないほどあるが、最近びっくりしているのが、「自粛」ってやつである。
自粛 ー みずから行い・態度を慎むこと
国語辞典にはこう載っていた。
こうなってくると最近流行りの「国や地方自治体からの自粛要請」ってものがどうもきな臭い。みずから進んで行うものが自粛なはず!
「自粛を促す」ならまだ理解できるが、「自粛要請」となってくると日本語として正しいのか悩ましいところだ。
そして、遂にこんな記事を見つけた。
え!?!?自粛違反???
これはもう完全に日本語としておかしい。みずから進んでやることに違反ってあるのか?
でもこの記事に対する反応見てると「意識が足りない!」と怒っている人が大勢いるようだ。
これが窒素を吸って安心する人だ
自粛が空気感によっていつの間にか強制になっている。自粛を要請しているだけなのだから、どう行動するかは本人たちに決定権がある。確かにこの時期に大人数の宴会はすべきじゃない。でも自粛するかどうかは他人に非難されるいわれのないことだろう。
国がどうしても出歩かせたくないなら外出禁止令を出すべきだが、この言葉を使うと国が補償をし、責任を取らなきゃいけなくなってしまう。
自粛要請という崩壊した曖昧な言葉で責任を自粛した側に押し付けようとする行政の思惑が透けて見える。窒素を吸って安心する人々は、この行政の思惑に見事に乗っかり、「自粛違反」叩きを行う。
今の社会のこの感じ、僕はかなり危惧している。
戦時中に似たような空気感が充満していたから。
「戦争に協力しないとは何事か!」
「贅沢は敵だ!贅沢を自粛しないとは非国民め!」
こういう空気感が充満して、日本はかつて取り返しのつかないことをしてしまった。
窒素を吸って安心する人がこういう空気を醸成し、こういう空気は人と違う考えや行動をする人たち、意見を表明する人たち、社会においてマイノリティーな性質を持つ人たちに攻撃的になる。
このような同調圧力は日を追うごとに強くなっているようで、この土日には警官が警棒を持って歌舞伎町を練り歩き、自粛していない人を説得するというようなことが行われたようだ。
もう完全に自粛ではなく恫喝。ゲシュタポや特高警察が大昔にやっていたようなことが今平然と行われている。
窒素を吸って安心する人は是非これからも安心していい。何も考えず空気を読んで生きていけば。でもこういう空気感でかつて日本が大きな間違いを犯したことに自覚的になってほしいなと。そう思います。
皆さんもお体に気を付けて、お過ごしください。
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