10年代を象徴する映画は?(邦画編)

先週は10年代を象徴する映画としてアメリカ、ロシア、韓国の映画を紹介しました。今週は10年代を象徴する日本の映画3作品を紹介させていただきます。僕はもともと洋画しか鑑賞していなくて、邦画を観始めるようになったのは大学の時、だいたい4年ほど前からで、なかなか選定が難しかったです。リアルタイムで観てないものを選んでもその時の自分の感情が分からないので。特に一つの国から3作品となると難しい。最初からかなり苦労しましたが、頑張って選びましたので読んでいただけたら幸いです。


『桐島、部活やめるってよ』(2012)

朝井リョウの小説を『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』(2007)や『クヒオ大佐』(2009)などの作品で知られる吉田大八監督が映画化。日本アカデミー賞やTAMA映画賞など多くの賞を受賞しました。

クラスや部活動の中心で、可愛い彼女もいるスクールカースト最上位の桐島が突然部活や学校を休むようになってしまい、それ以降桐島の周囲の人間がどんどん不安感に苛まれるようになっていくというのが大雑把なあらすじです。

普通の学園ものにも見えるこの映画の何がすごいんでしょうか?それはこの映画が一つのクラスを軸に、現代の人間関係や若者のアイデンティティのあり方から、グローバリズムや神の不在、実存主義まで描いてしまう深みにあると思います。

この作品は桐島の周囲の高校生の一人称の視点で描かれ、映画部の前田、元野球部の宏樹、バドミントン部のかすみといった登場人物たちの視点が次々と入れ替わり、それが最終的に一点のクライマックスに向かっていくという構成で作られています。例えばロバート・アルトマン監督の『ナッシュビル』、ガス・ヴァン・サント監督の『エレファント』やオーストラリア映画の『明日、君がいない』などでも使われている手法です。そして、この作品において最も重要な登場人物である桐島はほとんど画面に登場しません。この作品が各登場人物の一人称で描かれており、また登場しない桐島という男が重要なキーマンになっていることは、この作品のテーマと密接に関わっています。

クラスのヒエラルキーの頂点に立つ桐島が姿を消したことは神の不在を意味しています。宗教的な神もそうですし、以前ポストモダンの話でもしました「大きな物語の終焉」や、グローバル社会において軍事的、経済的覇権を握るアメリカの一国主義化と捉えることも可能です。桐島という「神」が突如いなくなった不安から、無関係の人が混乱し、苛立ち、慌てふためく様を描くことで、全世界、全時代的に共通する普遍的な問題を描いています。

同時に、ある高校のクラスを舞台にしたことでもう一つのテーマが描かれています。それは若者の実存主義という問題です。実存主義とは分かりやすく「私たちの存在って何だろう?」という思想や哲学的な研究分野のことです。パスカルやキェルケゴール、ニーチェ、近代に入ってからはサルトルやメルロ=ポンティといった哲学者が提唱していました。つまりポストモダン(もっと言ってしまえばポストポストモダンとでも言うべき)の時代を生きる若者が何を考え、どう他人と接し、どう生きるかという切実な問題をこの作品は描いています。

結論から申しますと、若者は何も考えていません。多くの人は何も考えず、表面的に他人と接し、将来のことなど考えず何となく自己の人生を消費しています。昔は他人とどう接するか、社会がどう動くか、自分が何を仕事にし、誰と交友しいつ結婚するかという問題は死活問題であり、考えざるを得ない問題でした。しかし、戦後の日本は高度経済成長を迎え、物質的な豊かさが保証される社会になりました。エスカレーター式に大学を卒業し、就職し、年金貰って隠居できるような、考えなくてもどうにかなってしまう世の中です(恐らく次の10年でこの豊かさも崩壊していくでしょうが)。人生や社会といった、辛くて面倒な問題から目を背けても何とかなってしまうなら、誰も無理に考えないでしょう。そのような「豊かさ」、ニーチェを引用するなら「神を殺して神になり変わった資本主義」を無意識に桐島という人間に、桐島を頂点とするスクールカーストに投影していたのが『桐島、部活やめるってよ』における高校生たちでした。その神が突然いなくなり、自分で人生に向き合わなければいけなくなったり、人間関係の形式が崩れてしまった焦りが高校生たちに現れ始めます。

友達であるはずの人間に本音が言えない、本音を言ったら関係が壊れてしまう、相手の気持ちが分からないという不安を皆さんも感じたことがあるのではないでしょうか?この映画はそのようなリアリズムの描き方が非常に上手いので、観ていて心がムズムズするし、セリフの間や表情などから読み足らないと分かりません。だからいまいち分かりづらい映画になってしまっているのかもしれませんが...それが魅力ですよ!スルメと同じ!

ネタバレは控えたいし語り始めると永遠に語れてしまう作品なのでこの辺にしときます。飽和の時代に何のために生きるのか、他人にどう向き合うのか、考えながら鑑賞いただけたら幸いです。ラストシーンのカタルシスは何度観ても薄れません。



『ディストラクション・ベイビーズ』(2016)

暴力がウイルスのように感染していく狂気をネット社会と重ね合わせて描く真利子哲也監督の傑作です。現代社会の狂気をここまでストレートな暴力描写に象徴している作品は珍しいかと思います。『ファイト・クラブ』(1999)や『アメリカン・サイコ』(2000)以来な気がしますが、この二つの作品に、10年代に入り更に顕著になった要素が加えられています。インターネットです。

路上で片っ端から喧嘩を吹っ掛ける主人公の青年。暴力とは無縁だった周囲の人たちもどんどん暴力的になっていき、取り返しのつかない事態になるというのがあらすじです。

柳楽優弥演じる主人公がほとんど言葉を発しないというのがこの映画の特徴です。常に笑顔をたたえて人に殴りかかり、喧嘩に明け暮れています。彼が何を考えているかは全く読めず、見ず知らずの人に暴力を振るう理由も分かりません。彼の暴力性には実体が無いように思われます。そしてその暴力性は周囲に次々と拡散していきます。不良だけどやり返されれば逃げてしまう情けない高校生も、自分が暴力を振るうことのないキャバ嬢も、兄を心配する弟も、主人公に関わることでウイルスに感染したかのように攻撃的になっていくのです。

実体のない暴力性や不気味さ、更にその拡散性というのはインターネット、とりわけSNSを彷彿とさせます。10年代に入り、SNSによって社会が分断され、暴力や偏見を引き起こした例は枚挙に暇がありません。イギリスのミュージシャンのデヴィッド・ボウイが1999年のインタビューで「インターネットはただの道具ですよね?」というインタビュアーの問いに対してこう述べています。


「いいや、違うね。地球外生命体のようだ。(中略)現実の状況、内包される状況は、この先、今我々が考えることのできるものから大きく様変わりしたものになるだろう。ユーザーとプロバイダー間の相互交信は共鳴するように活発になり、メディアとはどんなものか、なんていう我々の既成概念は吹っ飛ばされることになるだろう。」


ボウイの言葉を分かりやすく言えば、本来、媒体でしかなかったはずのメディアが、インターネットという実体のないエイリアンのようなものによって、その概念を従来のように語ることが不可能なほどまでに変質してしまったということです。

話を元に戻すと、『ディストラクション・ベイビーズ』の主人公はボウイのいう「プロバイダー」に置き換えられます。彼が「プロバイド」するのは暴力や攻撃性であり、彼自身がメディアとなって、周囲の人間、所謂「ユーザー」を根本から変えてしまうのです。劇中で主人公は暴力を拡散するメディアのように行動し、それは街全体を飲み込んでしまいます。また、作中ではSNSが主人公たちの姿を拡散し、それを受けて主人公と行動を共にする高校生の行動が過激化していく展開があり、この作品のテーマの一つとしてインターネットがあるのは間違いないでしょう。

10年代という時代を象徴する作品として、極めて秀逸で参考になる作品だと思います。これは余談ですが、方言オタクの僕としては伊予弁がたくさん聞けるのが嬉しいところです!またナンバーガールの向井秀徳の主題歌も素晴らしいです。



『天気の子』(2019)

『君の名は』で評価、興収ともに日本映画界を席巻きした新海誠監督の2019年のアニメーション映画です。天気を操る力を持つ少女陽奈と離島から家出した少年帆高の交流と選択を描いた作品で、難解な作品にも関わらず若者を中心に大ヒットしました。

僕の周りの映画ファン以外の人も結構鑑賞していた作品です。この作品は少年少女の青春劇という娯楽性と、現在の日本社会の在り方や資本主義批判という社会性を兼ね揃えた作品なため、映画ファンにも映画ファン以外にも支持されたのだと考えられます。鑑賞した方の中にも『天気の子』のどういう点が社会批判だったのか分からないという方が多いと思うのでそれについて書きたいと思います。

まずこの作品が最も特徴的なのは細部の描きこみの細かさです。新宿を始めとした街並みが現実に忠実に描写されていることです。マクドナルド、スカイツリー、田端駅、ラブホテルまで、今までの作品にほとんど観られないほど忠実です。この細かさは街中に溢れる情報やモノを象徴していると思われます。モノに溢れる世の中なのに、帆高は幸福ではありません。何かから逃げているのです。このことは画面に一瞬映る『ライ麦畑でつかまえて』の文庫本を帆高が持っていることからも分かります。『ライ麦畑でつかまえて』は大人への怒り、大人が作った虚構の社会への怒りに溢れた作品です。この小説を持っていることが帆高の社会への怒りのメタファーとなっています。

だから帆高と陽奈の大人への怒りが雨となって、大人が作った世界を浄化するという構造になっています。この映画において雨を止めさせようとするのは大人たちです。「大人になれよ、少年」というセリフが意味するのは、忖度しろという同調圧力です。でもどうでしょうか?この希望のない社会、負債を次の世代に押し付けた大人たちに忖度する必要があるんでしょうか?そんな大人に仲間入りする必要ありますか?僕はないと思います。作品を鑑賞すると新海監督も同じ意見であることが分かります。この作品は日本社会に対する宣戦布告であり、世代間闘争だと思います。愛にできることがまだあるかいという監督の問い、それは戦うこと、諦めないこと、考えること、忖度しないで声をあげることではないでしょうか?


10年代を代表する日本映画3作品を紹介させていただきました。また長文になってしまい恐縮です!いかがだったでしょうか?感想などいただければ嬉しいです。


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