見出し画像

個を愛することは罪なのか

世の中には「飼育動物を愛玩動物として認識してほしくない」というポリシーのもと、飼育動物の個体名を公表していない動物園があります。多くの動物園では個体名が公表されていますが、同様の理由でそれをよく思わない職員の方もいると聞いたことがあります[要出典]。

では、私たち一般の来園者は、飼育動物を種としてのみ認識すべきなのでしょうか。
動物園は学術的な好奇心や知的欲求のみを満たす施設であって、来園者はそこで異境の動物たちの平均的な体つきや毛並みの模様、仕草のみに焦点を当てて観察し、個体の持つ特徴や癖に目を向けてはいけないのでしょうか。
種を飛び越えた個体というレイヤーで興味を抱くことは罪なのでしょうか。

結論から言えば、私はそうは思いません。
個への愛を否定することは、私にとってユキヒョウへの愛を否定することにもつながります…などとユキヒョウを持ち出すと、ユキヒョウへの向き合い方についての自己保身を目的としたポジショントークの性格を帯びてしまうので、違う動物の例からこの命題に取り組んでみます。

私は一時期(と書かざるを得ないことが悲しいですが)、タヌキにも並々ならぬ関心を寄せていました。この記事ではそんなタヌキの話をしていきたいと思います。


私は以前からタヌキに漠然とした興味を持っていました。

信楽焼といった焼き物やたぬきそばなどの料理に代表されるように、歴史的・文化的にも日本人との関わりが深いタヌキは日本人のアイデンティティをくすぐるもののひとつです。映画「平成狸合戦ぽんぽこ」では物語の主役にもなり、漫画「映像研には手を出すな」でも重要(?)なファクターになっています。
ですから、日本人がタヌキに抱く漠然とした親近感は、御多分にもれず私にも備わっていました。しかし、やはりそれは漠然としたものであり、動物園でもタヌキ放飼場の近くを通りがかった際にふらりと立ち寄る程度のもので、まじまじと目的意識を持って観察することはありませんでした。

そんなある日、日ごろから通っていた多摩動物公園のタヌキ飼育場(たぬき山)のメンバーに名前が付けられていることを知りました。
名前によるラベリングは個体の識別を助け、個体ごとの特徴を浮き彫りにしてくれました。それまではぼんやりと眺め、うっすらとした興味を抱いていたタヌキという種の解像度が上がり、はじめて個が持つそれぞれの魅力に気が付いたのです。

当時のたぬき山には、アコ、トウブ、マナ、クロの4匹が暮らしていました。

おにぎり…ではなくアコ

とはいえ、唯一のオスであるクロは非常に警戒心が強く、巣穴に潜ったまま姿を見せたことがなかったので、来園者の目線からすると実質的には3匹が暮らしていたことになります。

落ち葉の飾りをつけるトウブ

彼女らは全体にタヌキとしては高齢で、日中は来園者の目の届かない草陰で寝ていることが多く、多くの来園者が展示動物の看板を見て「タヌキだって!」とひとしきり興奮した後に「いないねえ」と落胆して去っていく姿を何度も見てきました。
たぬき山においては、タヌキもまたユキヒョウと同じ「幻の動物」だったのです。

そんな3匹の中でも、私はマナというタヌキに特に魅せられました。

マナ

マナの魅力に気付いた私は足繁くたぬき山に通い詰めるようになり、マナにつられて、アコやトウブにも興味を向けるようになっていきました。
近付けば威嚇するような不仲かと思えば、次の週には身を寄せ合って仲良しこよしになる複雑怪奇なタヌキ社会は、いつ見ても新鮮で飽きのこない世界でした。寒空の下に1時間や2時間ほど張り込んででも、彼女らの暮らしぶりをのぞきたいという熱量がありました。

そんなある日、園内で捕獲された野生由来の若いタヌキたちがたぬき山に放流されました。
たぬきちとまめきちという若いオス2匹の合流に、たぬき山コミュニティは良くも悪くも活気付いて、さらに新しい魅力を見せてくれました。クロやトウブは突然吹き込んだ新しい風に強く吹かれて苦労していましたが、それもまたタヌキ社会の世知辛さを教えてくれました。
その後、さらにテンというメスも合流し、アコやトウブとの死別がありながらも、変化の絶えないたぬき山への関心は衰えることはありませんでした。

新入りタヌキたち。左からたぬきち、まめきち、テン

しかし、そのすべてはマナの死で変わってしまいました。

彼女がいなくなってから、たぬき山を観察する時間は徐々に減っていき、かつての自分や多くの来園者同様、「いればラッキー」程度の興味を以て、たぬき山をほとんど通過するようになりました。

マナという個の存在が、私にタヌキという種への関心を作り出し、つなぎ留めていたのでしょう。種そのものへの関心はそれ自身で自立できず、マナと共に失われてしまいました。

いろんなタヌキに会ってもずっと一番好きだったマナ

マナありきで抱いていた、タヌキという種全体への興味は欺瞞だったのでしょうか?
マナに会えずとも、アコやトウブに会えさえすればほくほく顔で帰路についた私は、自分を騙していたのでしょうか?

そんなことはない、と思いたい。
タヌキへの興味関心や愛は確かなものであったし、だからこそ全国ほうぼうの動物園に足を延ばしてさまざまなタヌキに会い、タヌキに関する情報発信も熱心にチェックしていました。
マナの死を契機にしてここまで態度が変わってしまったことに、私自身が誰よりも驚いています。

豊橋・のんほいパークのマサキチ

愛する個体を失った時、種への愛にどう作用するかは当の本人にとっても未知数なのです。そのまま好きが継続する人もいれば、そうではない人もいる。今回好きでい続けられた人も、別の機会には違う結果が待っているかもしれません。
ひとつ言えるのは、ある個体をきっかけとして種への関心を育んだ人にとってその個体を失うことは、ほかのすべての関心を捨て去ってしまうことがあるほど非常に大きな影響があるということです。

しかし、たとえ個を土台にして築き上げられた種への愛が非常に脆いものだとしても、それを以て個への愛を禁じる理由にはなり得ないと考えます。
私がタヌキを種として愛した時期はきわめて短く、結果として一過性のものとなってしまいましたが、彼ら・彼女らに向けた愛が正しく適正なものだったとすれば、それはタヌキたちにとっても、またタヌキに関わる方々にとっても有益なものであったはずです。
少なくとも、私がタヌキに興味を持ったがゆえに足を運び、少額ながら寄付した動物園があることは事実です。入園料や寄付金などの金銭という客観的な指標を以て、私は動物園やタヌキの飼育環境にわずかながらも好影響を与えたと言えるのです。

そもそも、動物たちは私たち人間と同じように個として生きているはずです。その個性を無視して、種としての一面しか見ない方が残酷ではないでしょうか。
彼らは動物園という施設の中にあっては種の代表であるかもしれませんが、紛れもない個でもあります。今ここにいる個を尊重することなく種全体に強い興味や関心を抱くことは、私にはできません。

とはいえ、行き過ぎた個への愛が暴走している人たちに遭遇したことも一度や二度ではありません。個への愛ゆえに彼らを愛玩動物化し、半ば私有化しているようにも見受けられます。私は私なりの倫理と線引きを持ち合わせているつもりですが、その間隙は程度の差でしかなく、本質的には同じものです。
動物園としてこの状況に危機感を抱き、アクションを起こすのは極めて自然なことということも理解しています。

動物を種として見るべきか、個として見るべきか、どちらにも納得できる主張があります。
動物たちが「種として見てくれよ」と言ってくれれば話は早いのですが、人間みんながドクトル先生になれるわけでも、先生に意見を仰ぐことができるわけでもありません。そもそも正しい動物の見方なんて、動物にとっても分からないでしょうし、まして人間に分かるはずもありません。

正解がない以上、一方に固執して他方を軽んずるのではなく、物言わぬ動物が何を考え何を求めているのか、それを考え続け尊重することこそが一来園者としての務めだと思います。

とりあえず投げ銭しておけば間違いない


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?