楽園殺し2(4)周年

 著作「楽園殺し」発売から、本日でちょうど2年となる。
 今回、0.5巻という名目で、4日間のインターネット連載をした。
 1周年のときになにもしなかったのになにを突然、と言われたら返す言葉がない。真相を明かすと、とくにそういうつもりで書いたものではなかった(という言い方をするなら、そもそもぼくはなにかのつもりでものを書くということをほとんどしないのだけど…)。
 3ヵ月くらい前にパッとできあがり、当時はまあ適当に公開するかなと思ったのだけど、続刊が出るときのプロモーションにでもまわしたほうがいいかなと思い直し、しばらく置いておいていた。
 しかし実際に時期が近づいてくると、プロモーションをやるにせよ、たぶんこのスピンオフはとくに有効活用できないだろうなと気づいて、それだったら長く待たせている読者に雰囲気を思い出してもらうための繋ぎとしたほうがよいかと考え直して、ちょうど2周年ということもあり、このタイミングで公開したという流れだ。

 締めにあとがきでもあったほうがいいかなと思って書き始めたけど、とくに書きたい内容が定まっていないから、今決める。
 少しメタ的な話をしようかな。
 今になってメイン登場人物の昔の時系列を書くというのは、個人的にはけっこう新鮮なチャレンジだった。
 時系列そのものが過去の話を書くということは簡単にできると思うし、実際にべつのスピンオフではやっているんだけど、それは新しい主人公格を据えたときの話だ。頭のなかですでに時間が進行しているふたりをわざわざ過去に戻してやるというのは、考えてみるとおもしろい行為だといえる。

 小説を書くというのはわけのわからないことだらけだが、わからないからこそおもしろい部分がわりとある。とくに、登場人物について、そのキャラがどれだけ描写されるのかというのは、ぼくにも書いてみるまでわからないことで、なかなか興味深い。
 キャラクターの設定や背景は決めているのだが、実際にそれが本編にどう反映して、どれくらい説明するのかということは、ほとんど決めないまま着手する。これは功を奏することもあるし、失敗の要因になったりもする。
 ぼくの場合は、だいたいのケースで説明不足になる。リベンジャーズ・ハイの敵役モンステルや、楽園殺し1・2巻の人形遣いなんかは、もっとちゃんと書くべきだったと、刊行してから後悔した。
 ただしこの後悔はまさしく先に立たないもので、かりにこの後悔を持ったまま校正の時間まで戻ったとしても、けっきょく原稿には反映できないのだとも思う。原稿には目に見えない大きな流れがあって、それをブッたぎるかたちでだれかの過去を差しこんだり、余計な説明を入れるということは、なぜだか許されないのだ。
 その点でいうと、おそらく今回の中編の敵役は、そう悪くない塩梅で書けたなと思った。たぶん、ぼくがやるとどうしてもこれくらいの説明不足具合になるのだろうと思うし、自分のそうした性質を自覚したうえで着手できたせいか、初めて想定に近いかたちで出力できたように感じた。

 デビューしてから4年が経過した。
 ぼくはデビューしたあとになって初めてまじめに小説を書くということについて思考するようになったので、すなわち、ぼくの小説歴が4年になったという意味だといえる。
 これは以前ブログにも書いたが、4年という長い歳月で得た収穫は、多くはない。ただし、少なくともボウズというわけではない。
 小説を書くというのは究極的にマニュアルの存在しない事象だが、他人と共有できるマニュアルがないかわりに、自分にとってのマニュアルは作成できるものであるようだ。
 だからこそ、ほかのひとは知らないが、少なくとも自分はこういうふうに書くのだろうと推定できることを増やしていくのは大事だ。むしろ、それ以外に大事なことはないといってもいいくらいに。

 マニュアルに、ルールはいくつかある。そのいちばん上にある鉄則だけは、デビュー以前からわかっていたことだ。「まず自分が楽しめるものを書く」これがなければ、なにをどうすることもできない。商業だろうが趣味だろうが、作家当人が楽しんで書いていないものはゴミだと言い切っていい。
 人間は、ひとの言っていることにはわりとおもしろがれる生き物だが、自分の言っていることを楽しめる人間は、じつはかなり少ない。
 自分の発言で場を笑わせたとき、発言者は、それによって相手が笑っているから、反射して笑っているのだ。それはミラーニューロンの働きなのだ。
「でも、場が笑っていないのに、自分のジョークに自分だけで笑っているやつもいるじゃないか!」
 そういうツッコミもあるかもしれない。これにかんしては、そういうやつはいるとしか言いようがない。自分のジョークに自分で笑っているような人間。たしかにいる。が、小説家は、自分のジョークに自分で笑わなければならないのに、ひとりで笑ってはいけないのだ。
 わかるだろうか? どうしたって人間は、共感によって笑わなければならないのだ。つまり小説家という生き物は、自分で書いたジョークに自分で笑うだけではだめなのだ。小説家がやるべきは、自分の頭のなかに住んでいる他人とコミュニケーションを取ったとき、そのときに生じるミラーニューロンの働きによって、最後に自己を笑わせなければならないのだ。
 これが、小説を書くことのむずかしさの本質だ。また、これが強いエゴイズムの結果であることの証左だ。
 自分で自分のジョークに笑いながら、その反面、まるで笑わず、自分にどこまでも冷静な目線でツッコミを入れられる人間でなければ、まともな水準で小説を書くというのはむずかしいのだろうと思う。

 以上の理屈でもって、ぼくはチーム制作の創作が、じつはもっともバランスのいい体制だと思っている。このジョークがおもしろいと思うかどうか、ほかのひとの意見を聞きながら作っていけるからだ。
 だが、小説はひとりでやるものだ。ひとりゆえに純度が増して、威力があがるかわりに、範囲が狭くなっていく。武器でいうなら、槍の印象だ。
 だからぼくは、そこらの安い言い方ではなく、本当の意味で、ぼくの書くものに気づいてくれる読者に対して、感謝している。

 変な人生を送って来たもので、貴重な20代の後半という時間を、いったい小説を書くとはどういうことなのだろうという自己流の考察で、ほとんど潰してしまった。
 今後どうしていくのかはわからないけど、いずれにせよ、鉄則は破られないからこその鉄則だ。ぼくがこの先どういう小説を書くにせよ、かならず、これまでと同程度か、それ以上のものを提供することになるのだと思う。

 こんな僻地まで読んでくれているひとのために、ぼくはものを書いているのである。

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