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走れていない時に何をするかが自分の今後を決める:堀尾和帆

高校での無念で競技継続を決意

私は、憧れだった都大路に出場するために母校である鳥取中央育英高校に進学した。1年生時、チームは都大路に出場したが、私は6番目の選手で走ることができなかった。悔しかった。2年生では、県高校駅伝でアンカーを任されたが、襷をもらった時は1位と50秒差の2位。差をつめることはできたが、都大路出場は逃した。人生初の区間賞もまったく嬉しくなく、鳥取育英の都大路16年連続出場という伝統を途切らせてしまったのもあり、涙が止まらなかった。最後の県高校駅伝もアンカーを任されたが、チームは2位。私は3年間で都大路を走ることができなかった。陸上は高校で辞めるつもりで3年間過ごしたが、最後の高校駅伝が終わった日に、その悔しさから、大学でも陸上を続けることを選んだ

環境の変化から学んだこと

毎年テレビで見ていてかっこいいと思っていた全日本大学女子駅伝に出場すること、5000mで15分台を出すことを目標に、環太平洋大学に入学した。大学生になって一番感じることは、高校時代と比べ体が変わってきていることだ。1回のポイント練習でも高校時代と比べて疲れやすく、また、疲れが取れにくい。高校時代より体重も増えている。高校は寮生活で食事が管理されていたのに対し、今は自炊で自己管理の部分が大きい。そのため、好きなものを好きなだけ食べるという生活になってしまっている。競技以外の睡眠時間や食事など生活面から見直していきたい。

飛躍の要因はケガをしなかったこと

大学2年目の昨年は、5000mで自己ベスト、予選会で1位、全日本大学女子駅伝出場、全日本学生選抜(富士山女子駅伝)に選出と、自分の思っていたよりも良い結果を残すことができ、飛躍の年になった。その理由の1つとして、昨年は1年間、一度もケガをせず継続して練習を積むことができたことが挙げられる。これまでは、毎年、3か月に1回くらいの頻度でケガで走れない時期があった。完全に足を痛めてしまう前に自分で考え、セーブして練習に取り組めるようになったのが大きい。

卒業後も走り続けたい

卒業後は実業団で走るか、あるいは保育士になりたい。今の自分の実績では実業団には行けないので、実業団に進むためには、あと2年で相応の結果を残さなければならない。保育士になったとしても、走ることは好きなので、ロードレースに参加するなど、趣味で走り続けようと思う。

競技からたくさんのことを学びたい

残り2年の大学生活で、チームとしては、全日本大学女子駅伝で8位入賞、環太平洋大学初の富士山女子駅伝出場を果たしたい。個人としては、5000mを15分台で走りたい。また、今までお世話になった方々に恩返しできていないので恩返しになるような走りをしたい。これまで競技をしていて、思うようにいかないことの方が多く、納得のいく走りはあまりできていない。走れている時よりも、走れていない時に何をするかが自分の今後を決めると考えている。これは、社会人になってからも絶対に活きてくると思うので、これからも競技を通して様々なことを学んでいきたい。

「いつか」のためにがんばりたい

新型コロナウイルスの影響で当たり前の日常が一瞬で変わった。目標としていた試合がなくなったり、練習する場所や人数が限られたり。1人で練習する日々の中で思うことは、いつもの環境が恵まれていたということ。試合がない中で練習に取り組むのは精神的にきついが、いつかは試合が始まるので、その「いつか」のために、今は頑張って練習に取り組みたい。いつ何があるか分からないことがよく分かったので、これまで以上に、1日1日を大切に過ごしていきたい。

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